第66話どちらの味方でもございませんわ
北の長屋は、港の倉庫街の裏手、潮の匂いが一番濃いところにあった。
板葺きの屋根が六軒ぶん、肩を寄せ合うように並んでいる。戸口の前には、干した網と、割れた樽と、子どもの下駄がひとつ。灯りが点いているのは、真ん中の一軒だけだった。ほかの窓は、まだ宵の口だというのに、どれも早々と暗くなっていた。
わたくしは、通りを挟んだ井戸の脇に立って、日傘を開いていた。夜に日傘というのも妙なものだけれど、閉じていると、どうにも手持ち無沙汰なのだ。
【コメント】こんばんは
【コメント】ほんとに来た
【コメント】北の長屋ってここか
【コメント】静かだな
【コメント】まだ若旦那たち来てない?
来ていた。
倉庫街の角から、松明の灯りがひとつ、ふたつ、揺れながら近づいてくる。
七つ。いえ、八つ。昼間の若旦那が、先頭から二番目を歩いていた。仕立ての良い上着の袖を、肘までまくり上げている。後ろの方々は、手に手に、棍棒やとび口を提げていた。
【コメント】来た
【コメント】挨拶の道具じゃないんだよな
【コメント】とび口って、戸をこじ開けるやつだろ
【コメント】完全にやる気だ
【コメント】スタロは?
【コメント】南の倉庫でボヤだって スタロそっち行ってる
【コメント】またか
若旦那が、真ん中の一軒の前で足を止めた。
灯りが、ふっと消えた。
「おい! 中にいるのは分かってんだ!」
若旦那は、松明を戸口に突きつけた。
「お前んとこの倅、黒鴉組だろう! 港を閉めさせてるのは、お前らだ! 今夜中に荷物まとめて、港から出ていけ!」
返事はなかった。
戸の向こうで、何かが小さくきしんだだけだった。
【コメント】うわ
【コメント】ガチの追い出しだ
【コメント】中の人、息殺してる
【コメント】倅は組でも、母ちゃんは関係ないだろ
【コメント】でも港止まって食えなくなってるのは若旦那側も同じなんだよな
【コメント】どっちの気持ちも分かるのがきつい
どちらが正しいのか、この目で確かめに来た。
それなのに、わたくしの目に映っているものは、ずいぶんと分かりやすかった。
夜分に、松明を持って、人様の戸口に押しかけて。返事がないからと、とび口を戸の隙間にねじ込もうとしている。
――悪い方の、なさることだ。
港を良くしたいというお気持ちが、どれほど本物でも。
「スタロ様は、いらっしゃいませんのね」
わたくしは、日傘の柄を、指で叩きはじめた。
【コメント】あ
【コメント】始まった
【コメント】とん、とん
【コメント】三十秒タイマー起動
【コメント】若旦那、急いで帰れ
【コメント】いや、帰らなくても、せめて戸から離れろ
――とん。五。
とび口が、戸の隙間に食い込んだ。
――とん。十二。
戸板が、みしりと鳴った。若旦那が、後ろの方々に顎をしゃくる。二人がかりで、とび口の柄に体重をかけていく。
――とん。二十。
戸の内側で、小さな子どもの泣き声がした。すぐに、誰かの手で口を塞がれたように、くぐもって消えた。
【コメント】子どもいる
【コメント】中に子どもいるって
【コメント】お嬢、待って、いや待たないで、いやどっちだ
【コメント】三十秒って、こういうときも律儀に数えるのかよ
【コメント】約束だからな……
【コメント】約束の使い方がおかしい
――とん。二十八。
若旦那は、戸口の正面に立っていた。
松明の灯りに照らされた戸板と、それに取りついた男の方々の背中を、ちょうど真後ろから見下ろす位置。
借りるのに、何の抵抗もない目だった。
――とん。三十。
――赤い松明。きしむ戸板。とび口にかかる、六つの背中。
白。
長屋の軒が、まとめて夜空へめくれ上がった。
松明の火が、ひとつ残らず吹き消える。棍棒も、とび口も、それを握っていた手も、同じ白の中に散って、潮風の向こうへ昇っていった。
光の粒が、七つ。
あとには、戸口のあった場所に、ぽっかりと四角い暗がりが開いているだけだった。
【コメント】
【コメント】七人
【コメント】戸板ごと
【コメント】戸を壊すのは悪い方のすることって、今言ってなかった?
【コメント】戸、本人が一番壊した
【コメント】若旦那……
【コメント】若旦那だけ立ってる
若旦那が、ひとりだけ、立っていた。
火の消えた松明を握ったまま、戸のなくなった戸口と、自分の両脇の、誰もいない地面とを、何度も見比べていた。
「……なんで」
かすれた声だった。
「なんで、俺だけ」
【コメント】また、ひとりだけ残ってる
【コメント】両替所のおばあちゃんのときもそうだったよな
【コメント】偶然だろ
【コメント】港の起重機のじいさんも、操縦台でひとりだけ無事だったぞ
【コメント】……偶然だろ
四角い暗がりの奥で、何かが動いた。
女の方が、ひとり、這い出すようにして戸口に現れた。腕の中に、小さな子どもを抱えている。子どもは、もう泣いていなかった。目を大きく見開いて、外の、軒のなくなった夜空を見上げていた。
女の方の目が、立ち尽くす若旦那を通り過ぎて、通りの向こうの、わたくしの日傘で止まった。
「……あんた」
女の方は、子どもを抱く腕に、ぎゅっと力を込めた。
「あんたは、どっちの味方なんだい」
わたくしは、日傘を傾けて、軽く膝を折った。
「どちらの味方でもございませんわ。わたくしは、悪い方の敵ですの」
【コメント】名言っぽく言ったけど
【コメント】どっちの味方でもない(物理)
【コメント】母ちゃん、全然納得してない顔
【コメント】そりゃそうだ、軒が消えてる
【コメント】でも、若旦那たちが戸を破ってたら、もっとひどいことになってた……のか?
【コメント】分からん
【コメント】分からんのが一番こわい
倉庫街の方から、呼子笛の音が近づいてきた。
角灯がいくつも、通りに駆け込んでくる。その先頭で、兜も被らずに走ってきた方が、通りの真ん中で足を止めた。
関谷様だった。
関谷様は、軒のない長屋と、戸口の母子と、消えた松明を握ったままの若旦那と、それから、わたくしを、順番に見た。
長い、長い息を吐いた。
「……今日は何もしないでくれと、言ったはずだ」
「ええ。ですから、昼間は何もいたしませんでしたわ」
「今も、今日だ」
「まあ。もう、夜ですのに」
関谷様は、何も言わずに、額に手を当てた。
【コメント】今も今日だ
【コメント】お嬢の一日、日没で終わる説
【コメント】隊長、言い返す気力すらない
【コメント】隊長が来たってことは、若旦那、捕まるのか
【コメント】長屋に押し入ろうとしてたもんな
【コメント】自分の支持者を、自分で捕まえることになるのか
関谷様は、若旦那の前まで歩いていった。
火の消えた松明を、その手からそっと取り上げる。若旦那は、されるがままだった。
「……旦那」
「刃物は抜いてなかったな。だが、人の戸を破ろうとした」
関谷様の声は、昼間、空き樽の上で聞いたのと、同じ声だった。
「誰であろうと、だ」




