第64話閑話 帰る場所は、長屋だけ
☆ 黒鴉組若頭視点 ☆
「港の件は、片付いた。謹慎は、今日で解く」
卓の翌朝だった。番頭の叔父貴は、座敷の障子を開けるなり、それだけ言った。
俺は、畳に座ったまま、顔を上げた。
「片付いたって、どう片付いた」
「下りた。うちも、カルティエも。仮面の首が見つかるまで、港の番には立たねえ」
「……親父が、そう決めたのか」
「決めた」
叔父貴は、障子の桟に手をかけたまま、俺を見下ろしていた。片目の上の古い傷が、行灯の明かりで、白く光っていた。
「それとな、連。港には、もう立つな。お前もだ」
障子が閉まった。
*
謹慎を食らってから、一度も、屋敷を出ていない。
港で、ひとりで名乗って、ひとりで殴り込んで、カルティエに貸しを作られた。若い連中が勝手に羽織を裏返して夜討ちをかけたのも、俺が止められなかったからだ。親父の言うことは、全部、筋が通っていた。だから、黙って座っていた。
カルティエへの借りは、俺の稼ぎから払えと言われた。屋敷から出られねえ人間に、稼ぎなんてねえ。貯めてたもんを、月ごとに崩して、番頭の叔父貴に預けている。来月の分で、底をつく。
親父は、それも分かってて、そう言ったんだろう。
昨日の話は、叔父貴から全部聞いた。
荷揚げ場の真ん中に、串屋の卓。親父と、カルティエの男。立会人に、日傘の女。
鐘がひとつ鳴って、お付きの若いのが、袖から刃物を抜いた。うちの倉庫からも、向こうの倉庫からも、若い連中が飛び出した。親父の一声で、そいつらは止まった。止まったそいつらを、日傘の女が、両方まとめて吹き飛ばした。
袖から抜いたのは、辰だった。
俺の下で、一番よく走る奴だ。紙を見せられて、親父が討たれると思い込んで、袖に一本、隠していった。白い男に押さえつけられて、命拾いしたらしい。
……その紙なら、俺のところにも来ていた。
三日前だ。障子の隙間に、差し込んであった。小さく、几帳面な字。鐘がひとつ鳴ったら、向こうが親父を討つ。
顔も名乗らねえ奴の紙なんざ、読む値打ちもねえと思った。行灯で焼いて、それで終わりにした。
親父には、言わなかった。
昼過ぎ、倉庫の前で吹き飛んだ三人が、けろっとした顔で屋敷に帰ってきた。腹が減ったと、台所で騒いでいた。
前に、港の外れで、カルティエの人足と揉めた奴がいた。あいつは、今も帰ってこない。
親父が下りたのは、たぶん、それだ。日傘の女に吹き飛ばされても、明日には腹を空かせて帰ってくる。組同士で刺し合えば、帰ってこねえ。
筋は、通っている。
通っているのが、腹立たしかった。
*
夜更けに、屋敷を出た。
謹慎は解けた。港には立つなと言われた。港でなけりゃ、どこへ行こうと勝手だ。
足は、坂の方へ向いていた。
坂の角の屋台は、まだ灯りがついていた。
暖簾をくぐると、焼き台の前の串屋が、顔を上げた。
「いらっしゃいませ。……ああ、尾崎さん」
串屋は、少しも驚いた顔をしなかった。
港で頭を割られた晩、この屋台で、湯呑と串を出してもらった。額の傷を、黙って手ぬぐいで押さえてくれた。それ以来だ。
「額の傷は、もうよろしいのですか」
「とっくに塞がった」
「それは、何よりです」
串屋は、湯呑に茶を注いで、俺の前に置いた。
それから、何も聞かずに、串を焼きはじめた。
しばらく、炭の爆ぜる音だけがしていた。
「……昨日、港で、親父と向こうの男が卓についたそうだな」
「ええ。卓と椅子は、私の屋台のものをお貸ししました」
「あんたも、いたのか」
「炭を足す係でございました」
串屋は、串を返しながら、穏やかに言った。
「組長さんは、立派なお方ですね。下りる、と決めるのは、上る、と決めるより、ずっと難しいことでしょうから」
「……下りるのは、負けだ」
「そうでしょうか」
「うちの若い連中は、港で荷を担いで、港で食ってきた。番を下りたら、あいつらは、どこで食う」
串屋の手が、止まった。
焼き台の上の串を見たまま、串屋は、少しだけ声を落とした。
「若頭さんが港に立てないのでしたら、港の若い衆が帰る場所は、長屋だけになりますね」
「……ああ」
「北の長屋には、組の若い方の親御さんが、何軒も住んでいらっしゃいます。……港の荷主さん方は、あまり良い顔をなさらないかもしれませんね」
串屋は、そこで、言葉を切った。
それから、俺の皿に、焼き上がった串を一本、載せた。
「長屋の皆さんが、怖い思いをなさらなければ、よいのですが」
俺は、串を取った。
塩だけの、ねぎまだった。
「……あんたは、分かってくれるんだな」
「何を、でございましょう」
「下りた連中にも、帰る場所がいるってことを」
串屋は、困ったように笑った。
「私は、ただの串屋ですので。……ただ、どちらの若い方も、お腹は空きますから」
今朝、港の門の前で、うちの若いのにも、カルティエの若いのにも、同じ包みを配っていたと聞いた。
そういう人なんだろう。
串を食った。
代金を置いて、暖簾をくぐった。
*
帰り道、坂を下りて、倉庫街の裏を通った。
北の長屋に、灯りが、いくつもついていた。いつもは、真ん中の一軒だけなのに。
港を下りた若い連中が、親のところへ帰ってきているんだろう。窓の向こうで、影が動いていた。笑い声がひとつ、聞こえた。辰の声だった。
長屋の向こう、荷主の倉庫の並ぶあたりは、真っ暗だった。
俺は、しばらく、その灯りと暗がりの境目に立っていた。
それから、屋敷の方へ、歩き出した。
袖の中で、手が、勝手に拳になっていた。




