第5話三階からいらした方も、ようこそ
男の足もとに、林檎がひとつ転がっていた。
わたくしは屈んで、それを拾い上げた。ドレスの裾が石畳に触れないよう、膝を揃えて。表面に白い粉塵がうっすらと積もっていたので、手袋の指先で払う。赤が戻った。
「そちらも、よろしいかしら」
男の腕の中に、もうひとつ残っている。
手を差し出すと、男はそれをわたくしの手のひらに載せた。奪い返すまでもなかった。まるで、最初からわたくしに届けるつもりで抱えていたかのような、素直な渡し方だった。
背後が、騒がしくなっていた。
瓦礫の向こうから、足音がいくつも駆けてくる。石を退かす音。誰かが誰かの名前を呼んでいる。何度も、同じ名前を。
わたくしは振り返らなかった。お嬢様の背中は、そういうときのためにあるのではない。
きっと、中にいらした方々のお知り合いだろう。
お気の毒なことだった。夕食の最中だったのかもしれない。
けれど、道は閉じた。この通りの枝道は、今夜からしばらく、盗人の逃げ場ではなくなる。
【コメント】あのビル一階に食堂入ってなかった?
【コメント】今のビルの三階にいたんだが?????
【コメント】今リスポーン地点なんだが?????
視界の端を、文字が慌ただしく流れていく。
三階に、いらした方。
わたくしは、少しだけ目を瞬いた。
あのビルにいらして、そこからわざわざ、この配信を探して見に来てくださったのだ。今夜の出来事を、いちばん近くで体験なさった方が。
なんて、ありがたいことだろう。
【コメント】被害者本人来てて草
【コメント】草じゃねえよ
【コメント】NPCの人らは……
同時視聴は、四十を超えていた。
三人から始まった数字が、たった数分でこれほどに。騒ぎを聞きつけた近くの方々が、次々と覗きに来てくださっているらしい。三階の方の書き込みは、そのあとも続いた。疑問符が、一回ごとに増えていく。
よほど、興奮していらっしゃるのだろう。
三階からいらした方も、ようこそ。
心の中でそう申し上げて、わたくしは林檎を二つ抱え直した。
【コメント】これ賞金首確定だろ
【コメント】初配信で指名手配はさすがに伝説
【コメント】……表示出なくない?
伝説。
初配信で、もうそんなお言葉をいただけるとは思わなかった。
賞金首。
あの男の方のことだろうか。確かに、盗みは罪だ。けれど林檎二つで賞金首とは、この街の法も随分と厳しい。
書き込みはすぐに別の話題に押し流されて、わたくしもそれきり気にしなかった。
男は、まだ瓦礫の前に座り込んでいた。
わたくしは日傘を傾けて、その顔を覗き込んだ。
「二度と、なさいませんように」
男は、首がもげそうなほど何度も頷いた。
よろしい。人は、言葉で動かすものだ。
来た道を、また一分かけて戻る。
青果店の店主は、わたくしが立ち去ったときと寸分違わぬ姿勢で、口を開けたまま立っていた。店先の林檎の山が、爆風でいくつか崩れて転がっている。
「こちら、お返しいたしますわ」
差し出した林檎を、店主は受け取った。受け取ったというより、手のひらに置かれるまま、じっとしていた。
やがて、乾いた唇がようやく動いた。
「あ……ありがとう、ございます……?」
語尾が、ほんの少しだけ上がっていた。
お礼を言い慣れていらっしゃらないのだろう。わたくしは鷹揚に頷いた。
隣の露店の女将が、わたくしと目が合った途端、並べていた小間物を黙って布で覆い隠した。夜風で埃が入らないように、という心遣いに違いない。この通りの方々は、なかなか気が利いている。
二つの林檎。
たったそれだけのために、わたくしはこの通りへ来たのではない。けれど、この二つが持ち主の手に戻ったことには、確かな意味がある。この二つだけではない。明日盗まれるはずだった品も、明後日盗まれるはずだった品も、今夜、まとめてこの手に取り戻したのだ。
振り返ると、通りの奥にはまだ灰色の煙が残っていた。
その向こうで、通りは確かに塞がっている。
わたくしは、カメラの方を向いた。
「これで、あの方にこの先盗まれるはずだった品々も、すべて守られましたわね」
言葉にすると、胸の奥がすっと澄んでいくようだった。
一歩も走らず、汗の一滴もかかず、追いかけられる側に座ったまま、わたくしは盗人を捕まえた。ビルひとつと引き換えに、この通りの明日からの被害を、丸ごと未然に防いだ。
これ以上の結果が、あるだろうか。
「九条院瑠璃華の初陣、いかがでしたかしら。皆様、ごきげんよう」
【コメント】初陣の規模じゃない
【コメント】ごきげんようで締めるな
【コメント】おうえん、してます……?
最後の書き込みに、目が留まった。
最初に「応援してます」と言ってくださった方だ。今度は少し控えめに、語尾を上げていらっしゃる。
きっと、照れていらっしゃるのだろう。
わたくしは、微笑んで配信を閉じた。
*
目を開けると、天井が暗かった。
ヘッドギアを外す。こめかみに、クッションの跡が残っている。
身体の重さが戻ってくる。背中がシーツに沈み、脚はそこにあるのに、どこにも力が入らない。ダイブのあとは、いつもこうだ。向こうで立っていた分だけ、こちらの身体が少し遠く感じる。
私はしばらく、そのまま天井を見ていた。
心臓が、まだ速かった。
手を伸ばして、枕元のタブレットを取る。
配信サイトの、自分のチャンネルを開く。
登録者、1。
指が止まった。
ダイブする前まで、そこには0と書いてあった。
誰かが、見ていてくれた。
あの三人のうちの誰か。あるいは、あとから来てくれた四十人のうちの誰か。どこの誰かは分からない。でも、あの夜の私を見て、もう一度見たいと思ってくれた誰かが、この世界のどこかに一人いる。
私はタブレットを胸の上に伏せて、目を閉じた。
少しだけ、泣きそうだった。
泣く代わりに、タブレットをもう一度持ち上げた。
メモ帳の「悪党出没マップ」を開く。市場通りの四つ辻に付けた印の横に、小さく丸を書き足した。
それから、地図を少し下へずらす。港の倉庫街に、印が三つ。東の歓楽街に、五つ。
次は、どこにしよう。
しばらくして、机の引き出しのノートのことを思い出した。
万里花様の言葉を書き写した、あのノート。明日の朝、あのページの横に書き足そうと思う。
欲しいものほど、自ら追いかけてはいけない。
――実践済み。




