第4話あちらは、行き止まりにしておきましょうか
足音が、真正面から来る。
林檎を二つ抱えた男が、わたくしの方へ一直線に駆けてくる。
顔は、さっき覚えたばかりのあの顔だ。わたくしを見て、わずかに進路をずらす。それだけで、脇をすり抜けていった。ドレスの袖が、男の起こした風で小さく揺れた。
振り向く必要はなかった。
「あら」
日傘を肩に預け直す。
胸の内で、あの夜の声が響いた。欲しいものほど、ご自分から追いかけてはいけませんわ。
この場面のために、半年を費やしたのだと思った。
「お嬢様は、殿方を追いかけたりはいたしませんの」
【コメント】追わないんかい
【コメント】初見です!がんばってください!
ご安心くださいな、と胸の内で答える。
追わないことと、逃がすことは、同じではない。
通りはまっすぐだ。あの男の背中は、まだわたくしの目に映っている。
この目に映っている相手なら、その目をお借りできる。
視点共有。
誰でも安く買える、ありふれたスキルだ。借りていられるのは一度に一秒。どれほど頑張っても二秒が限度。賭場に入り浸る方々が、卓の向こうの相手の手札を盗み見て、勝ちの目をほんの少し増やすのに使う――攻略掲示板には、その程度の小技として書かれていた。わたくしもキャラクターを作ったとき、初期の選択肢の中から、何となく選んだだけだった。
けれど、半年の稽古のあいだに気がついた。これほど、お嬢様に向いたスキルはない。
一歩も動かずに、遠くを見られる。走り回らずに、相手の行く先が分かる。
もっとも、最初からうまくいったわけではない。
初めて借りたのは、窓辺にとまった鳩の目だった。たった一秒で、寝台に倒れ込んだ。鳩というのは、信じられないほど首を振る生き物なのだ。二度目は野良猫にした。猫は猫で、見たいものしか見ない。一秒のあいだ塀の上の蝶だけを見せられて、わたくしはまた寝台に倒れ込んだ。
人の目がいちばん素直だと分かったのは、ひと月ほど経ってからだった。人は、行きたい方向を見る。逃げる人間なら、なおさらだ。
呼吸をひとつ。
世界が、男の目になった。
揺れる石畳。荒い息。通りの先に、五階建ての雑居ビル。一階に灯りのともった食堂。その手前で、道が左右の路地へ細かく枝分かれしている。
一秒。
わたくしの目は、四つ辻に戻っていた。
なるほど、と思う。
あの枝道のどれかに飛び込まれたら、もう見つけられない。この通りの路地は入り組んでいて、盗みの報告が多いのも、たぶんそのせいだ。逃げ込む先がいくらでもあるから、悪い方々が集まってくる。
ならば、入る前に道を閉じればいい。あのビルを、通りに横たえてしまえばいい。
食堂には、きっと夕食をとっている方がいらっしゃるだろう。上の階にも、誰かいらっしゃるかもしれない。
けれど、ここであの男を逃がせば、明日もまた誰かの店先から何かが消える。明後日も、その次の日も。この通りの盗みの報告は、毎晩のように上がっていた。
今夜ひとつ道を閉じるだけで、その先にあるはずだった被害が、まとめて消える。
比べるまでもないことだった。
術式を、組む。
いつもの手順で、いくつもの術式を一つずつ重ねていく。半年、毎晩繰り返してきたことだ。指先ほども迷わない。重ね終えた術式を、放たずに手の内で留めておく。
普段なら、ここで日傘を構える。
狙いを定めるための所作だ。重ねた術式を一点へ束ねるには、どこを狙っているのかを、自分の身体にはっきり分からせてやる必要がある。日傘の先は、そのための目印だった。
けれど、今夜は要らない。
狙う場所は、借りた目の中に映る。映った瞬間に放てばいい。一秒あれば、足りるのだ。
男の背中が、枝道の手前に差しかかる。
わたくしは日傘を肩に預けたまま、ただ通りの先を眺めて呟いた。
「……あちらは、行き止まりにしておきましょうか」
男の目。
視界いっぱいの、太い柱。
爆ぜた。
白く焼けた一秒が明けると、わたくしの目の先で、通りの突き当たりが閃光に呑まれていた。遅れて轟音が石畳を渡ってくる。天幕が一斉に煽られ、露店の品物が転がり落ちる。
足を失ったビルが、ゆっくりと通りの側へ傾いでいく。狙った向きに。
横たわる音は、爆音よりも長かった。
灰色の煙が、通りをこちらへ押し寄せてくる。粉塵は、日傘の陰までは届かなかった。
【コメント】は?
【コメント】ビルどこ
【コメント】今なにした????
視界の端で、文字が弾けるように流れていく。
何をしたのか、とお尋ねだ。ご説明して差し上げたい気持ちはある。けれど、手品の種を自分から明かす手品師はいない。お嬢様もきっと、同じようなものだろう。
【コメント】ガス爆発でたまたま崩れた説
……たまたま、ではない。
わたくしは少しだけ唇を結んだ。反論はしない。品がないからだ。
煙が晴れていく。
通りの突き当たりは、塞がっていた。狙った通りの角度で。瓦礫が道幅いっぱいに積み上がり、枝道の入口は一つ残らずその下に消えている。
その手前に、あの男がへたり込んでいた。腕から転げ落ちた林檎が、瓦礫の縁で止まっている。
わたくしは、四つ辻から一歩も動いていない。
追いかけてもいない。声を荒らげてもいない。汗の一滴もかいていない。
それなのに、あの方は止まった。止まって、わたくしが来るのを待っている。
完璧だった。
頭の中で何度も思い描いてきた光景が、そのまま目の前にあった。追いかけられる側に、どっしりと座っているお嬢様。あの夜、画面の向こうで万里花様が笑いながら語った姿を、わたくしは今、この足で立って、実際にやり遂げたのだ。
同時視聴の数字が、十一に増えていた。
わたくしは歩き出した。
踵から下ろし、土踏まずで受け、爪先で送る。一歩、また一歩。
【コメント】歩くの遅くない?
【コメント】ビル倒せる人の移動速度じゃない
悠然と歩む、と言っていただきたい。
ここで小走りに駆け寄っては、せっかくの幕切れが台無しになる。追いかけないお嬢様は、迎えに行くときも追いかけないのだ。
六十と少しの歩数をかけて、わたくしは男の前に立った。
男は、瓦礫とわたくしとを交互に見上げていた。
口が開いたまま、閉じ方を忘れてしまったような顔だった。
わたくしは日傘を傾け、にっこりと微笑んだ。
「逃げ道がなければ、追いかける必要もございませんでしょう?」




