第3話事件には、起きていただかないと困りますの
足の裏に、床がある。
目を開けるより先に、それが分かる。体重が踵に落ち、膝がそれを受け止め、腰の上に背骨がまっすぐ積み上がっている。立っている。
半年経っても、この最初の一秒だけは慣れない。慣れたくもなかった。
わたくしは目を開けた。
狭い部屋だ。寝台と、姿見と、小さな卓がひとつ。エバーポートで最初に借りた、わたくしの拠点。飾り気はないが、窓から港の灯りが見えるところは気に入っている。
姿見の前に立つ。
金の髪は、左右ともきっちり四巻き。黒地に深紅を重ねたドレスは裾まで皺ひとつなく、手袋の指先まで整っている。立てかけておいた日傘を取り、柄の感触を確かめる。
鏡の中の九条院瑠璃華は、今夜も申し分なくお嬢様だった。
「――参りましょうか」
声に出すと、背筋がもう一段伸びた。
拠点を出て、港沿いの坂を下る。
踵から下ろし、土踏まずで受け、爪先で送る。最初の一ヶ月、この順番を身体に覚えさせるためだけに、わたくしは部屋の中を何百往復もした。膝から崩れるたびに、寝台の縁に掴まって立ち上がった。
今は、もう転ばない。ただ、一歩ごとに地面を確かめる癖だけは、どうしても抜けなかった。
構わない。お嬢様が急ぐ理由など、どこにもないのだから。
坂の中ほどで、荷車が止まっていた。
野菜を山と積んだ荷車の後ろで、腰の曲がったおばあさんが踏ん張っている。車輪が石畳の窪みに嵌まって、押しても引いても動かないらしい。
わたくしは足を止めた。
手を貸すのは簡単だ。この身体なら、荷車のひとつくらいは押せるだろう。
けれど、それでは足りない気がした。わたくしが押せば、荷車はひとつ動く。それだけだ。
人を動かしてこそ、お嬢様。
ちょうど、坂の上から大柄な男が下りてくるところだった。肩に麻袋を担ぎ、急ぐ風でもなく口笛を吹いている。
わたくしは日傘を傾け、その進路に半歩だけ出た。
「そちらの殿方」
「……あ? 俺か?」
「ええ。そのお力、少々お貸しいただけますかしら。あちらのご婦人がお困りですの」
男は、わたくしと荷車とを見比べた。それから、なぜか一度わたくしの髪を見た。
「いや、あんたが押しゃいいんじゃ」
「わたくしが押すより、あなたが押した方が早く済みますでしょう?」
男は何か言いかけて、やめた。麻袋を下ろし、荷車の後ろに回る。ひと押しで、車輪はあっけなく窪みを越えた。
おばあさんが何度も頭を下げる。男は照れたように首の後ろを掻いて、それから、どこか釈然としない顔でわたくしを振り返った。
「ご協力、感謝いたしますわ」
わたくしは一礼して、坂を下りた。
背中に、男の視線がしばらく刺さっていた。きっと、見惚れていらしたのだろう。
坂の下で、街の色が変わる。
石畳の継ぎ目が荒くなり、壁の落書きが増え、灯りの色が黄ばんでいく。露店の天幕が通りの両側からせり出して、空を細く切り取っている。
下調べの通りだった。
通りの入口で足を止め、視界の隅に配信の操作盤を呼び出す。
指先で、開始を押した。
同時視聴、ゼロ。
分かっていたことだ。配信を始めたばかりの、名もない新参者。最初から誰かが待っているはずもない。わたくしは数字から目を離さずに、呼吸をひとつ数えた。
一。
二。
三。
三人。
三人も、いらっしゃる。
この数字の向こうに、画面を覗いている誰かが三人いる。わたくしがこれから何をするのかを、見届けてくださる方が。
日傘の縁を軽く持ち上げ、わたくしは一礼した。
「ごきげんよう、皆様。九条院瑠璃華ですわ。本日より、この街の平和のため、微力ながら尽くさせていただきますの」
視界の端を、白い文字が流れていく。
【コメント】初見です!応援してます!
【コメント】ドリルでっか
応援。ありがたいお言葉だ。
それから、二つ目。
大きい、と言っていただけたのだろう。四巻きにするのは手間だが、その甲斐はあったらしい。わたくしは顎をわずかに上げて、髪が揺れる角度を意識しながら歩き出した。
一人目の方には、いずれきちんとお礼を申し上げたい。けれど、今ではない。
街を歩きながら画面に向かってお喋りをするお嬢様など、見たことがない。わたくしは前を向いた。
さて。
この通りへ来たのは、散歩のためではない。
路地の入口を覗く。
酒瓶を抱えた男が座り込んで、いびきをかいていた。事件ではない。
露店の奥を眺める。
店主が帳面をつけているだけだった。これも違う。
二軒先の店先で、二人連れが声を荒らげていた。わたくしは足を緩め、しばらく様子を窺った。片方が拳を握る。もう片方が身を乗り出す。
ようやく――と思ったところで、二人は同時に吹き出した。値切りの掛け合いだったらしい。握手をして、品物と硬貨を交換している。
わたくしは静かに視線を外した。
平和なのは、よいことだ。この街の方々が、今夜も穏やかに暮らしておられる。それは喜ぶべきことに違いない。
けれど、初配信なのだ。
ヒーローが街を見回り、何事もなく一日を終える。それはそれで美しい。ただ、それを配信で三人の方にお見せするのは、いささか心苦しい。わざわざ足を運んでくださったのに、お茶の一杯もお出しできないようなものだ。
せめてひとつ、ほんの小さなもので構わないから。
事件には、起きていただかないと困る。
通りの中ほど、四つ辻で足を止めた。
一週間かけて拾い集めた書き込みを思い出す。スリ、置き引き、万引き、露店荒らし。日付も手口もばらばらの報告が、なぜかこの辻から半径五十歩ほどの範囲に集まっていた。時間帯は、ちょうど今頃。夕食時を過ぎて、店じまいの支度が始まり、人の目が手元に落ちる時刻。
条件は、揃っている。
「このあたり、何か起きそうな気配がいたしますわね」
【コメント】気配(何もない)
気配ではない。
一週間分の被害報告を、日付と場所で並べ直した結果だ。
……と、ご説明申し上げたいところだった。
けれど、お嬢様が統計の話を始めるのは、たぶん品がない。それに、数字は数字でしかない。起きる確率が高いというだけで、今夜ここで必ず何かが起きるという保証にはならない。
わたくしは日傘の柄を握り直し、辻の四方にゆっくりと目を配った。
青果店の店先で、痩せた男が林檎の山を眺めている。
手に取るでもなく、店主と言葉を交わすでもなく。ただ、店主が奥の木箱に屈み込むのを、じっと待っている。
男の視線が、一度だけ左右に走った。
わたくしとも、目が合った気がした。
ほんの一瞬。
わたくしは微笑んだりしなかった。首も傾げなかった。ただ、その顔を覚えた。
店主が、屈み込む。
男の手が、動く。
「――泥棒っ!」




