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悪辣非道お嬢様配信 ~わたくし、お嬢様道を実践しているだけですの~  作者: 白い鴉


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第2話お嬢様は、追いかけない

 締め切りまで、あと四時間。

 モニターの中では、深海の生き物たちが青白く光っていた。


 水深千メートルを超えると、太陽の光はほとんど届かない。それでもそこに棲む生き物の多くは、自分で光を作る。餌を誘うため、仲間を見分けるため、あるいは捕食者の目を眩ませるため。

 そこまで打ち込んで、私は手を止めた。

 「捕食者の目を眩ませるため」は、先週別の記事で使った言い回しだ。消して、書き直す。依頼主の編集さんは、そういうところを絶対に見逃さない人だった。


 フリーのライターになって三年になる。科学系の、それも「難しいことを、中学生でも読めるように」という注文の記事が多い。ブラックホールの蒸発も、腸内細菌の縄張り争いも、深海魚の発光も、私の机の上では同じ重さで並んでいる。

 知らないことを調べて、分かるように書き直す。その仕事が、私は嫌いではなかった。この部屋から一歩も出なくても、できる仕事だったから。


 最後の段落を書き終えて、送信ボタンを押す。

 時計を見ると、締め切りの三時間前だった。上出来だ。


 机の縁に手をかけて、車椅子を後ろへ引く。

 この机は、私の膝がちょうど収まる高さに脚を切ってある。引っ越してきたとき、最初にやったのがそれだった。本棚の一番上の段は空のまま。手が届かないから、何も置いていない。

 部屋の中の何もかもが、座った目線で並んでいる。慣れれば、それが普通になる。


 ベッドの脇に車椅子を寄せて、ブレーキをかける。

 枕元のヘッドギアを手に取る前に、タブレットを開いた。


 お気に入りの一番上に、ひとつだけアーカイブが残っている。

 もう何十回再生したか分からない、紫堂万里花(しどうまりか)様の配信だ。


 外に出るのが、怖かった時期がある。

 車椅子に乗り始めて、最初の一年くらいだったと思う。段差や人混みより、すれ違う人の視線の方が重たかった。見られていないと分かっていても、見られている気がした。買い物はすべて通販にして、仕事も画面越しで済ませて、それでも困らないことに、少し安心して、少し落ち込んでいた。

 その頃、夜中に何となく開いた配信の中に、あの人がいた。


 画面を叩くと、見慣れた部屋が映る。アンティーク調のソファ。紅茶のカップ。そして、ゆるく巻いた髪をかき上げながら、万里花様が視聴者の相談を読み上げている。


『――好きな人に既読無視されて、追いLINEしちゃいそうです、と。はいはい、なるほどね』


 万里花様は紅茶を一口飲んで、カップを置いた。


『よろしくて? 欲しいものほど、ご自分から追いかけてはいけませんわ。追いかけた瞬間、あなたは「追いかける側」に決まってしまうの。お嬢様というのはね、追いかけられる側に、どっしり座っていればよろしいのよ』


 そこで一拍置いて、万里花様はふっと笑った。


『……って、お嬢様っぽく言ってみたけどさ。要するに、スマホ置いて寝ろってこと。既読無視の夜に打つ文章って、だいたい朝見たら頭を抱えるから』


 コメント欄が笑いで埋まる。

 私も、初めて見たときは笑った。笑って、それから、しばらく画面から目を離せなかった。


 追いかけられる側に、どっしり座っていればいい。


 あの人は、恋愛の話をしていただけだ。それは分かっている。

 でも私には、それが恋愛の話だけには聞こえなかった。追いかけることができないなら、追いかけなくていい生き方をすればいい。走れないことは、負けることと同じではない。そう言われた気がした。

 それから、万里花様の配信を最初から全部見た。


『人を動かしてこそ、お嬢様ですわ』

『人との縁こそ、最大の財産でしてよ』


 どの言葉も、たぶんあの人にとっては、その夜の相談に答えるための一言だった。

 私はそれを、一つ残らずノートに書き写した。

 今も、机の引き出しに入っている。


 アーカイブを閉じて、配信サイトの自分のチャンネルを開く。

 登録者、ゼロ。

 投稿、ゼロ。

 配信予約が一件。開始時刻まで、あと三十分。


 エバーポートを始めて、半年になる。

 あの世界では、私は立てる。歩ける。走ることだって、たぶんできる。やったことはないけれど。

 最初の一ヶ月は、ほとんど歩く練習だけで終わった。足の裏で地面を捉える感覚が分からなくて、何度も膝から崩れた。二ヶ月目からは、魔法の練習を始めた。誰にも見せずに、ひとりで。

 半年かけて、ようやく思えるようになった。

 あの世界でなら、私はなりたいものになれる。


 お嬢様に。

 それから、ヒーローに。


 ただ、ひとりで練習しているだけでは、どちらにもなれないことにも気づいていた。

 人を動かしてこそお嬢様だと、万里花様は言った。誰にも見られていない場所で、人は動かせない。

 だから今夜、私は初めて配信をする。


 場所も、もう決めてあった。

 ここ一週間、仕事の合間に攻略掲示板と被害報告のスレッドを片っ端から読んだ。どの区画で、どの時間帯に、どんな揉め事が多いか。書き込みの日付と場所をメモ帳に拾っていくと、ひとつの市場通りに印が集まった。夜になると客引きと酔っ払いが増え、スリと置き引きの報告が毎晩のように上がる通りだ。

 ファイル名は「悪党出没マップ」にした。付けてから少し恥ずかしくなったけれど、変えなかった。


 記事を書くときと、やっていることは同じだ。調べて、傾向を掴んで、いちばん確かめる価値のある場所へ行く。

 違うのは、今回は私自身が、そこで何かを起こす側だということ。


 ヒーローは、事件が起きるのを待っているだけでは足りない。事件のある場所へ、自分から出向くものだ。

 もっとも、出向いたあとで走り回るつもりはない。そこは万里花様の教えの通りに、優雅にやる。そのための練習を、半年してきたのだから。


 タブレットを伏せて、ベッドの手すりを掴む。

 腕に体重を預け、身体を車椅子からベッドへ移す。何千回も繰り返した動作だ。脚を片方ずつ持ち上げて、シーツの上に揃える。

 仰向けになって、ヘッドギアを被った。

 内側のクッションが、こめかみに柔らかく当たる。


 配信タイトルは、三日悩んで決めた。

 【初配信】九条院瑠璃華、参りますわ。

 少し気取りすぎかもしれない。でも、気取らないお嬢様なんて、たぶんいない。


 目を閉じる。

 起動音が、耳の奥で小さく鳴った。


 視界が白く抜けていく直前、ひとつだけ決めた。

 今夜は、何があっても走らない。

 追いかけない。

 お嬢様は、追いかけられる側に、どっしり座っているものだから。


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