第49話人質の方々も、解放されましたわ
「お嬢さん――!」
隊長さんの声が、背中の方で裏返った。
わたくしは、振り返らなかった。
二階の窓の奥。縄をかけられて、床にうずくまっている白髪の老婦人。大きく見開かれたまま、震えている目。
呼吸をひとつ。
――薄暗い部屋。床に散らばった書類。壁際に並んで座らされた、縄の人たち。泣いている若い娘。俯いた職員。開け放たれた鉄の金庫と、その前で袋に銭を詰めている覆面の背中。窓辺の覆面。扉の前の覆面。五つ。
窓の外、通りを挟んだ向かいの倉庫の屋根に、背の高い人影がひとつ。黒い外套。顔のあるべきところに、表情のない、のっぺりとした仮面。
――見物の方かしら。
放った。
白。
両替所の窓という窓から、光が噴き出した。
鉄の格子が、飴のように外へ曲がって弾け飛ぶ。二階の床が抜け、屋根が持ち上がり、白い石の壁が、内側から押し広げられるように崩れていった。入口の上の青い光の文字が、一文字ずつ千切れて、宙に散った。
音が、港じゅうの窓を震わせた。
それから、銭が降ってきた。
開いていた金庫の中身だった。銅の銭、銀の銭、上層の刻印の入った四角い金貨。何百、何千という硬貨が、爆風に乗って高く舞い上がり、港の大通りに、ざあっと雨のように降り注いだ。
衛兵の方々の盾に当たって、からからと鳴る。石畳を跳ねて、路地の奥まで転がっていく。
光の粒が、銭の雨に混じって、昇っていった。
五つよりも、ずっと多く。
【コメント】……
【コメント】建物ごと
【コメント】人質ごと
【コメント】人質ごといった
【コメント】銭が降ってる
【コメント】光の粒、多すぎる
【コメント】中に十人以上いるって隊長言ってたよな
【コメント】うそだろ
【コメント】見物人、路地から銭拾いに出てきてるぞ
【コメント】この状況で拾うな
砂埃が、ゆっくりと晴れていった。
両替所だった場所には、崩れた白い石の山があった。
その山の真ん中に、床板が一枚だけ、斜めに残っていた。その上に、白髪の老婦人がひとり、座っていた。
縄は、まだ手首にかかったままだった。
老婦人は、きょとんとした顔で周りを見回していた。自分の周りに、もう誰もいないことを確かめるように。
頭の上を舞っていた最後の銀貨が一枚、その膝の上に、ぽとりと落ちた。老婦人は、それを不思議そうに見下ろした。
【コメント】ばあちゃんだけ残ってる
【コメント】膝に銀貨
【コメント】今日はほんとに笑えない
わたくしは、崩れた石の山を眺めた。
悪い方々は、もうどこにもいらっしゃらない。
上層へ逃げることも、金庫の銭を持ち去ることも、もうできない。縄で縛られたまま、次に何をされるのかと怯えて過ごす人質の方々の時間も、もう終わった。
連絡艇で上層へ逃げられていたら、上でもまた、どなたかが同じ目に遭っていたかもしれない。それを思えば、ここで片付いたのは、何よりだ。
「人質の方々も、これで悪い方々の手から解放されましたわ」
【コメント】解放(物理)
【コメント】上層に逃げられるよりマシ理論
【コメント】比べる相手がいつもおかしい
【コメント】俺、今日で視聴やめるかもしれない
【コメント】↑と言いつつ明日も見てるやつ
【コメント】……否定できない
背後で、がしゃん、と盾の落ちる音がした。
振り返ると、隊長さんが、石畳に膝をついていた。
兜が、ずれていた。両手を地面について、崩れた両替所を、ただ見上げていた。
「……交渉、してたんだ」
「ええ。存じておりますわ」
「あと少しだったんだ。向こうも、疲れてきてた。窓の男の声が、かすれてきてた。あと半刻もあれば……」
「半刻も、人質の方々を怖がらせておくわけには参りませんもの」
隊長さんは、何も言わなかった。
口を開けて、閉じて、それから、ずれた兜を、震える手でかぶり直した。
部下の衛兵の方がひとり、隊長さんの肩に手を置いた。
隊長さんは、その手を払いもせずに、しばらく、じっとしていた。
【コメント】隊長……
【コメント】ちゃんと仕事してたのにな
【コメント】あと半刻で落とせてたかもしれない交渉を
【コメント】三十秒で終わらせた
【コメント】スタロ待ちの三十秒な
【コメント】スタロ、帰ってきてこれ見たら泣くぞ
路地の方から、見物の人たちが、恐る恐る戻ってきていた。
石畳に散らばった銭を、誰かが一枚拾う。すると、もうひとりが拾う。気がつけば、何十人もが腰をかがめて、大通りじゅうの銭をかき集めていた。
「拾うな! それは上層銀行の金だ!」
衛兵の方が怒鳴っても、誰も手を止めなかった。子どもがひとり、四角い金貨を両手に握りしめて、路地の奥へ走っていった。
【コメント】人質だったプレイヤーです 今、拠点の寝台で目が覚めました
【コメント】生きてた(死んでた)
【コメント】縛られてたとこから、いきなり寝台
【コメント】両替に来ただけなんですけど 両替前の銭、全部あそこに置いてきました
【コメント】今、大通りで知らない人が拾ってるやつだ
【コメント】泣いていい
わたくしは、崩れた石の山を上って、斜めに残った床板のそばに膝をついた。
手首にかかったままの縄を、ほどいて差し上げる。結び目は固かったけれど、指先で少しずつ緩めると、やがて、はらりと落ちた。
「もう、大丈夫ですわ」
老婦人は、赤くなった手首をさすりながら、わたくしの顔を見上げた。
「……みんなは?」
「悪い方々は、ひとり残らず、いなくなりましたわ」
「そうじゃなくて……わたしの隣に、娘さんがいたの。泣いてた子。それから、窓口のお兄さん」
わたくしは、老婦人の手を、両手でそっと包んだ。
「皆様、悪い方々の手から、解放されましたわ」
老婦人は、わたくしの顔を、長いこと見つめていた。
それから、膝の上の銀貨に、もう一度目を落とした。何も言わなかった。
【コメント】……
【コメント】優しく言ってるのが一番こわい
【コメント】縄ほどいてあげるのは本当に親切なんだよな
【コメント】親切と爆破が同じ人の中に同居してる
【コメント】ばあちゃん、全部分かった顔してた
わたくしは、ふと、向かいの倉庫の屋根を見上げた。
借りた一秒の中に、映っていた人影。
黒い外套と、のっぺりとした仮面の。
屋根の上には、もう、誰もいなかった。
瓦の上を、港の風が吹き抜けていくだけだった。
物好きな見物の方も、いらっしゃるものだ。
わたくしは、日傘を傾け直して、銭の散らばった石畳を、ゆっくりと歩き出した。




