第47話閑話 お財布は、ちゃんと確かめました
☆ 待合所の乗客視点 ☆
上層行きの運賃を貯めるのに、三週間かかった。
港の魚市場で、朝から昼まで、氷を割る仕事。日当は安いし、手はかじかむし、魚の匂いは寝ても取れない。それでも、毎日ちょっとずつ貯めた。
浮島の庭園が見たかったのだ。攻略サイトの写真で見た、島の縁から滝が落ちていく庭。あれを、自分の目で、見下ろしてみたかった。
乗り場が開いたと聞いて、その日のうちに行った。
硝子の待合所は、写真で見た上層の建物みたいだった。天井から光が降ってきて、正面の光る板に、浮島行き、の文字が流れていた。
窓口で、切符を買った。三週間分の氷割りが、薄い紙一枚になった。
長椅子は埋まっていたから、柱の脇に立って、出航を待った。
隣の木箱の上で、見送りのお兄さんが、爪先立ちで連絡艇に手を振っていた。
そのときだった。
「皆様。お財布を、お確かめくださいまし」
よく通る、きれいな声だった。
あたしは反射的に、腰の袋を押さえた。ある。財布、ちゃんとある。切符も、ちゃんと懐にある。
よかった、と思って、声のした方を振り返った。
日傘を差した、金髪の縦ロール。
あ。
と思ったところで、世界が白くなった。
*
気がついたら、拠点の寝台の上だった。
銭湯の二階の、狭い貸し部屋。窓の外から、番台のおばちゃんが湯の温度で客と揉めている声が聞こえる。
しばらく、天井の染みを見ていた。
視界の端に、通知が二つ、浮かんでいた。
ひとつめ。減った体力の買い直し代。だいたい、氷割り四日分。
ふたつめ。見舞金の入金。氷割り、半日分。
「……割に合わない」
声に出して言ったら、少しだけ笑えた。
懐を探る。
切符は、あった。財布も、あった。お財布を確かめてくださいと言われて、ちゃんと確かめた財布だ。
寝台に寝転んだまま、あの人の配信のアーカイブを開いた。
白くなる少し前まで、巻き戻す。
長椅子に座った金髪の縦ロールが、待合所を眺めて、小さく首を振っていた。
『お一人ずつお伺いするのは、野暮というものですわ』
コメント欄が、そこで一斉に凍っていた。「あ」「あっ」「今なんて言った」。
あたしは、その「お一人」のうちの、ひとりだった。
野暮、と言われたのだ。あたしは。
三週間氷を割って貯めた切符を懐に入れて、柱の脇でただ連絡艇を待っていただけのあたしを、一人ずつ確かめるのは野暮だと。
不思議と、腹は立たなかった。
腹が立つより先に、なんだか、すごいものを見た、という気持ちの方が来てしまった。それがまた、ちょっと悔しかった。
*
港の外れの酒場に、被害者の会、という集まりがあることは知っていた。
配信の切り抜きで、何度も見た。まさか自分が入る日が来るとは、思っていなかったけれど。
奥の長いテーブルに、二十人くらいが座っていた。
プレイヤーばかりだった。旅装の人、職人風の人、あたしと同じくらいの年の子。みんな、どこか疲れた顔で、湯呑やジョッキを前にしていた。
「ようこそ。新規の方ですね」
端の席の、ひょろっとしたお兄さんが、帳面を開いて迎えてくれた。
「古着屋の二階」さんだ。切り抜きで、名前だけは知っていた。
「今日の乗り場の件ですか」
「はい。……お財布は、ちゃんと確かめました」
「ああ」
古着屋の二階さんは、深く頷いた。
「今日だけで、十二人目です。みなさん、確かめたそうです」
テーブルのあちこちから、乾いた笑いが漏れた。
壁に、瓦版が一枚、画鋲で留めてあった。
拳ほどの大きさの見出し。『悪辣非道のお嬢様、坂の中ほどにて賞金稼ぎの一団を一掃』。会で注文して刷ったものだと、古着屋の二階さんが少し照れくさそうに教えてくれた。本人が見て、褒め言葉だと思って喜んでいたことも。
会費は、お茶の葉ひとつまみだった。
持っていなかったので、酒場の女将さんから、ひとつまみ分けてもらった。帳面に、名前と日付と、「待合所」と書き込まれた。
「今日のは、ちょっと、いつもと違いましたね」
向かいの席の、職人風のおじさんが、湯呑を両手で包んで言った。
「広場の時は、悪党だけ呼んでた。巻き込まれた俺らは、まあ、勝手に見物に行った方も悪い。倉庫の時も、屋敷の時も、殴り込みの連中を狙ってた。……今日のは、俺らが中にいるの、見えてたはずなんだよな。見えてて、それでも、だ」
テーブルが、少し静かになった。
「でも、スリは本当にいたんですよ」
反対側の、若い男の人が言った。
「スタロが瓦礫から財布を六つ掘り出したの、配信に映ってました。見送りのばあちゃんが袖から抜かれるとこも」
「財布が六つ出てきたら、何十人吹っ飛ばしてもいいのかよ」
「それは、そうなんですけど」
「俺は、もう、あの人のこと面白がれないかもしれん」
「僕は、まだちょっと面白いと思ってます……すみません……」
誰も、どっちが正しいとは言わなかった。
あたしも、言えなかった。
白くなる直前、あたしは、あの人の顔を見た。
ちっとも、怒っていなかった。焦ってもいなかった。これから何か素敵なことが起きるのを待っている人みたいに、にこにこしていた。
それが、怖かったのか、きれいだったのか、まだ、よく分からない。
「あの、ついでなんですけど」
左耳に銀の耳飾りをした、三階さん、と呼ばれている人が、ジョッキを揺らしながら言った。
「そういや、雑貨屋の子。小夜ちゃん。最近、よく現場の近くにいない? 若頭が港に殴り込んだ時も荷馬車で居合わせてたし、坂の件はあの子の店そのものだし。今日も、窓口に並んでたって」
「……言われてみれば」
「いや、偶然だろ。あの子、お使いで港によく来てるだけだって」
「お嬢と仲いいから、一緒にいるだけでしょ」
「だよなあ。悪い、変なこと言った」
三階さんは、笑ってジョッキをあおった。
話は、スタロが今もまだ乗り場の瓦礫を片付けているらしい、という方へ流れていった。
*
酒場を出ると、港の空が、夕焼けで赤かった。
桟橋の方を見ると、乗り場は、骨組みだけになっていた。その骨組みの間を、白い人影がひとつ、行ったり来たりしていた。光る線が、夕暮れの中で、細く瞬いている。
明日になれば、あの乗り場も元に戻る。切符も、たぶん、使える。
懐の切符を、もう一度だけ確かめた。
明日、もう一度行こう。
浮島の庭園から、この下町を見下ろしてみたい。あの人がいつも、どんな景色の中で日傘を差しているのか。
上から見たら、少しは分かるかもしれない。




