第45話お一人ずつお伺いするのは、野暮というものですわ
老婦人は、何も気づかずに、連絡艇の方へ手を振り続けていた。
若い男の姿は、もう人混みに紛れていた。
背格好も、服の色も、どこにでもいるような方だった。一度目を離せば、どれがさっきの方だったのか、もう分からない。
【コメント】今の見た?
【コメント】ばあちゃんの袖から抜いた
【コメント】手際よすぎ
【コメント】プロのスリだ
【コメント】お嬢、見てた
【コメント】さあ、どうする
わたくしは、長椅子に座ったまま、待合所の中ほどを眺めた。
柱の脇の、木箱の上。
見送りの若い方がひとり、爪先立ちで伸び上がって、桟橋の連絡艇に向かって大きく手を振っていた。人混みより、頭ひとつ高いところから。
柔らかい目だった。
呼吸をひとつ。
――高い視界。硝子の天井の光。人の頭の海。その中を、するすると泳いでいく手。
商人の腰の袋に触れる手。婦人の肩掛けの下に滑り込む手。ぶつかって謝る男。杖をついた老人の、杖を持っていない方の手。
一秒。
わたくしの目は、長椅子に戻っていた。
五つか、六つか。もっとかもしれない。
怪しい手は、いくつもあった。けれど、そのうちのどれがスリの方で、どれがただ人混みで手の置き場に困っていただけの方なのかは、一秒では分からなかった。
お一人ずつ呼び止めて、懐を検めさせていただく。
袖の中を。帯の間を。お連れの方の荷物を。
わたくしは、その光景を思い浮かべて、小さく首を振った。
そんなことをしているあいだに、スリの方々は、人混みに紛れて桟橋を渡り、連絡艇に乗って、上層へ行ってしまわれる。そうなれば、上でもまた、どなたかの財布が消える。この乗り場で、明日も明後日も、どなたかが懐を押さえて泣くことになる。
それに、お嬢様が、見知らぬ方の袖の中を一人ずつ覗き込んで回るなど。
「お一人ずつお伺いするのは、野暮というものですわ」
【コメント】あ
【コメント】あっ
【コメント】今なんて言った
【コメント】お一人ずつ伺うのは野暮
【コメント】見分ける気、最初からない
【コメント】待って待って待って
【コメント】ここ一般人いっぱいいるんだけど
小夜さんは、奥の石の壁の向こうの窓口に並んでいらっしゃる。
術式を、組む。
撃つ前に、一言。
スタロ様と、そうお約束した。
わたくしは、長椅子から立ち上がり、日傘を肩に預けて、待合所じゅうに届くように声を張った。
「皆様。お財布を、お確かめくださいまし」
何人かが、こちらを振り返った。
何人かが、反射的に懐を押さえた。
ほとんどの方は、ざわめきにかき消されて、何も聞こえていないようだった。
【コメント】一言かけた
【コメント】スタロとの約束の守り方が雑
【コメント】守ってはいる、守っては
【コメント】小夜ちゃん、まだ窓口だぞ
木箱の上の若い方が、まだ手を振っていた。
――呼吸をひとつ。
――人の頭の海。泳いでいく手。
放った。
白。
硝子が、一度に歌った。
壁という壁、天井という天井の硝子板が、同じ瞬間に震えて、弾けて、光の粒の嵐になって降り注いだ。鉄の骨組みが、飴細工のように曲がる。光の板が、青白い文字を撒き散らして消える。柱の上の丸い硝子の目が、赤い光ごと、どこかへ飛んでいった。
桟橋の連絡艇が、大きく揺れた。
揺れて、傾いて、それでも、落ちずに浮いていた。
音が引いたあと、わたくしの足もとには、細かな硝子の欠片が、薄く、雪のように積もっていた。
日傘の上にも。
待合所は、骨組みだけになっていた。
その骨組みの間から、港の空が、何にも遮られずに見えた。
木箱がひとつ、残っていた。
その上で、見送りの若い方が、手を振りかけた格好のまま、口をぽかんと開けて固まっていた。
光の粒が、硝子の欠片に混じって、いくつも、いくつも、昼の空へ昇っていった。
【コメント】……
【コメント】乗り場が
【コメント】開業したばっかの乗り場が
【コメント】中にいた人たち
【コメント】スリも、スリじゃない人も
【コメント】ほぼ全員
【コメント】小夜ちゃんは!?
【コメント】カメラも消えた
【コメント】上層の警備室、今なにも映ってない
【コメント】さっきまでお嬢と目が合ってた人、どうしてるかな
わたくしは、日傘を傾けて、硝子の欠片を払い落とした。
スリの方々は、もうどこにもいらっしゃらない。
上層へ逃げおおせた方も、きっといない。この乗り場で、明日、懐を押さえて泣く方も、もういない。
「これで、この乗り場は安心ですわね」
【コメント】安心(乗り場がない)
【コメント】スリもプレイヤーなら、とっくにどっかで生き返ってるけどな
【コメント】お嬢の中では完全に成功
【コメント】俺、ちょっと本気で引いてる
【コメント】今までで一番こわいかもしれない
【コメント】広場の時は悪党しか呼んでなかった
【コメント】今回、最初から一般人いるの分かってて撃った
【コメント】それな
【コメント】……子連れのお母さん、どうなった?
桟橋の先で、連絡艇の扉が、ゆっくりと開いた。
中から、子どもの手を引いた母親が、よろめきながら顔を出した。
爆発の少し前に、先に乗り込んでいたらしい。子どもは、母親のスカートにしがみついて、骨組みだけになった待合所を、目を丸くして見つめていた。
【コメント】乗ってた!
【コメント】セーフ
【コメント】先に乗り込んでて助かった
【コメント】運だけで助かってる
【コメント】……船に乗ってた人は無事ってことは
【コメント】スリが先に乗ってたら、そいつも無事だな
【コメント】お嬢、あの親子のこと、一回も気にしてなかったよな
【コメント】それが一番こわいんだよ
「――瑠璃華!」
骨組みの向こう、待合所の端から、小夜さんが駆けてきた。
受付の窓口は、待合所のいちばん奥の、分厚い石の壁の中にあった。窓口の硝子は割れていたけれど、石の壁は残っていた。
小夜さんは、鈴村さんの荷を胸に抱えて、硝子の欠片を蹴散らしながら、わたくしの前まで走ってきた。
「あなた、また――」
「ご無事でしたのね。よかったですわ」
「よくない!」
小夜さんは、肩で息をしながら、荷を抱え直した。
それから、ふと、自分の腰のあたりに手をやった。
動きが、止まった。
「……財布が、ない」
その声に重なるように、港の空の向こうから、軽い靴音が聞こえてきた。
ひとつ、またひとつ。空中の見えない段を駆け下りてくるような、光の足音が。




