第44話どなたが、スリの方ですの?
港が開いてから、三日が経っていた。
荷揚げ場の入口には、今も黒い羽織と灰色の上着が、五人ずつ並んで立っている。ただ、腕を組んで睨み合ってはいなかった。片方が荷車の車輪を押し、もう片方が帳面に印をつけている。
その脇を、木箱を担いだ人足たちが、ひっきりなしに行き来していた。
「ほんとに開いたんだね」
隣を歩く小夜さんが、背伸びをして荷揚げ場を覗き込んだ。
「鈴村さん、すごいよね。串屋さんなのに、ヤクザとマフィアの間に座って、串配って、港開けちゃうんだもん。瓦版にも出てたよ。『串屋の親父、港を開く』って」
「ええ。鈴村さんは、どなたにでもお優しい方ですもの」
「……あなたがお庭を消したことは、端っこに一行だけだったけどね」
「控えめな書き方ですわね」
【コメント】こんにちは
【コメント】港、普通に動いてる
【コメント】両陣営の番が仲良く働いてて草
【コメント】串屋の親父、今や下町の英雄
【コメント】お嬢の庭破壊は一行扱い
【コメント】原因不明の崩落、だっけ
【コメント】いつものやつ
今日の小夜さんは、鈴村さんのお使いだった。
上層から、鈴村さん宛ての荷がひとつ届くのだという。港の新しい乗り場で、受け取りの手続きをしなければならない。
「串に振る、上の香辛料なんだって。前から取り寄せたかったけど、港が閉まってて届かなかったの」
「まあ。鈴村さんの串が、もっと美味しくなりますのね」
「……あなた、今日は付いてこなくてもよかったんだよ?」
「お使いのお供ですもの」
「前回それで倉庫がひとつ消えてるんだけど」
「前回のお使いは、樽が無事でしたわ」
小夜さんは、何か言い返そうとして、やめた。
【コメント】小夜ちゃん、完全に諦めの境地
【コメント】お使いのお供(歩く災害)
【コメント】今日の被害予想スレ立てた
新しい乗り場は、荷揚げ場から桟橋を二本隔てた先にあった。
硝子だった。
壁も、屋根も。細い鉄の骨組みに、大きな硝子板が隙間なく嵌め込まれていて、中の人の動きが、外からすっかり透けて見える。いちばん奥の受付の窓口のある一角だけが、古い石造りの壁のまま、硝子の中に取り込まれていた。桟橋の先には、あの白く細長い連絡艇が一隻、音もなく浮かんで、乗り込む人を待っていた。
中に入ると、ざわめきが、硝子の天井に跳ね返って降ってきた。
人が、多かった。
上層へ昇る方。上層から降りてきた方。見送りの方。物見遊山の方。旅装の商人、着飾った婦人、荷を背負った若者、子どもの手を引いた母親。長椅子はどれも埋まっていて、座れない人たちが、柱の周りに輪を作って立っていた。
正面の壁には、光の板が一枚、大きく掲げられていた。
出航の刻限と、行き先と、運賃。青白い文字が、流れるように入れ替わっていく。
【コメント】乗り場、完全にSF
【コメント】下町にこんなのできたのか
【コメント】港だけどんどん未来になってく
【コメント】プレイヤーも上層行けるようになったんだな
【コメント】改札で審査あるってほんとだった
【コメント】賞金首は改札で弾かれるらしい
【コメント】運賃高くね?
【コメント】高い。俺は諦めた
小夜さんが、光の板の前で、足を止めていた。
じっと、ひとつの行を見上げている。
浮島行き。片道。その横に並んだ数字を、口の中で、小さく読み上げていた。
「……こんなにするんだ」
「小夜さん?」
「ううん。なんでもない」
小夜さんは、首元の首飾りに、指先でそっと触れた。
「瑠璃華は、上に行ったこと、ある?」
「まだですわ。お招きいただいたことがございませんもの」
「招かれないと行かないんだ」
「お嬢様は、自分から追いかけたりはいたしませんの。浮島の方から、どうぞいらしてくださいと言っていただけるまで、待っておりますわ」
「……浮島の人、あなたのこと絶対招かないと思うよ。端っこ落としたし」
「あれは無人の小島でしたわ」
小夜さんは、小さく吹き出した。
それから、光の板の数字を、もう一度だけ見上げた。
「いつか、ね」
誰に言ったのかは、分からなかった。
小夜さんは、何事もなかったように、受付の窓口の方へ顔を向けた。
「あっちで手続きしてくるね。並んでるから、ちょっと時間かかるかも。瑠璃華は、そのへんで待ってて」
「ええ。お気をつけて」
【コメント】小夜ちゃん、浮島行きの運賃見てた
【コメント】おばあちゃんが行きたがってたとこだっけ
【コメント】首飾り触ったな
【コメント】行けるといいね
【コメント】お嬢、何も気づいてない
小夜さんが、窓口の列の最後尾に並ぶのを見届けてから、わたくしは、待合所の中をぐるりと見渡した。
柱の上に、妙なものがついていた。
手のひらほどの、丸い硝子の玉。台座に据えつけられて、首を振るように、ゆっくりと左右に向きを変えている。玉の奥に、小さな赤い光が、ひとつ灯っていた。
「……目、ですわね」
どなたの目なのだろう。
あの玉が見ているものを、どこか別の場所で、どなたかが見ているのだろうか。
借りられるかしら、と、ほんの少しだけ思った。
けれど、硝子の玉には、柔らかいも固いもなかった。手を伸ばしても、指先が冷たい硝子に当たって止まるだけのような感じがした。
【コメント】監視カメラだ
【コメント】下町に初めて見た
【コメント】上層の警備システムだろ
【コメント】お嬢、カメラをじっと見てる
【コメント】カメラ目線いただきました
【コメント】上層の警備室の人、今お嬢と目が合ってる
【コメント】かわいそう
硝子の玉から目を離したとき、壁の貼り紙が目に入った。
――スリにご注意ください。近頃、当乗り場にて被害が多発しております。
わたくしは、その一行を、二度読んだ。
スリ。
人混みに紛れて、他人の懐から財布を抜いていく、悪い方々。
わたくしは、日傘を閉じて膝に立て、長椅子の端に腰を下ろした。
背筋を伸ばして、待合所の人の流れを、端から端まで眺める。
旅装の商人。着飾った婦人。荷を背負った若者。子どもの手を引いた母親。柱の周りに立つ、見送りの人たち。
どなたも、普通の顔をしていた。
「……どなたが、スリの方ですの?」
【コメント】探し始めた
【コメント】お嬢の目が獲物モード
【コメント】スリの人、逃げて
【コメント】いや逃げてもお嬢は追いかけないから
【コメント】小夜ちゃん、早く窓口終わらせて戻ってきて
人混みの向こうで、ひとりの若い男が、見送りの老婦人の背中に、軽くぶつかった。
すみません、と頭を下げて、そのまま人の流れに溶けていく。
その手が、ほんの一瞬だけ、老婦人の袖の中を通り抜けたのを、わたくしは見ていた。




