第42話串屋の、顔を立てる
ラクロワ様は、門のあった場所で、足を止めた。
庭の跡を、ひと通り眺める。消えた塀。消えた池。台座だけになった石灯籠と、その上の鴉。それから、障子の骨にまみれた座敷と、その中の四人。
順番に、ひとつずつ。
「……これはまた」
それだけ言って、ラクロワ様は、玉砂利の名残を踏んで、座敷の縁の手前まで歩いてきた。
供の者は、ひとりもいなかった。
【コメント】エドモン来た
【コメント】ひとりで!?
【コメント】自分とこの人足が殴り込んだ直後の屋敷に、ひとりで
【コメント】度胸なのか、計算なのか
【コメント】両方だろ
堀割の方から、足音が集まってきた。
港から駆け戻ってきたらしい黒い羽織の方々が、十人、十五人。手に手に刀や棍棒を提げて、崩れた縁側の両側を固める。尾崎様が、座布団から片膝を立てた。
ラクロワ様は、その全部を見渡してから、鴉山様の方へ、胸に手を当てて頭を下げた。
「鴉山様。先ほどの者たちは、私の指示で動いたのではございません」
「口では何とでも言える」
「ええ、まったく。ですから、口以外のものもお持ちしました」
ラクロワ様は、懐から、革の紙挟みを取り出した。開いて、鴉山様の膝の前に置く。細かな字で、名前がびっしりと並んでいた。
「私どもの雇い入れの帳面です。先ほどの二十人は、全員ここに名のある日雇いの人足で、私の手の者ではございません。明日の朝までに、全員、雇いを解きます」
鴉山様は、帳面に目を落としもしなかった。
「港の倉庫の件以来、雇い人の中に、妙な噂が回っておりましてね。お嬢様が黒鴉組に寝返った、倉庫の仕返しをするなら今だ、と。……出所は、まだ分かりません。分かり次第、けじめは、こちらでつけます。お庭の分も含めて」
「……」
「それとも、今ここで、私の首でけじめをおつけになりますか」
黒い羽織の方々の刀が、一斉に、ほんの少しだけ持ち上がった。
【コメント】ひええ
【コメント】自分から首差し出した
【コメント】これ、断られないの分かってて言ってるな
【コメント】噂の出所、誰なんだよ
【コメント】帳面、用意よすぎない?
【コメント】誰かが両方に火つけて回ってない?
わたくしは、日傘の柄を握り直した。
ラクロワ様は、礼儀正しい方だ。けれど、鴉山様のお屋敷に刃物を持った方々が踏み込んできたのも、確かなことだ。
黒い羽織の方々も、刀を抜いている。
どちらかが一歩でも動けば、ここは、もう一度――
わたくしが日傘を少しだけ持ち上げると、その場の目が、一斉にこちらを向いた。
黒い羽織の方々も。ラクロワ様も。尾崎様も。
刀の先が、揃って、わずかに下がった。
【コメント】全員お嬢見た
【コメント】日傘ちょっと上げただけで場が凍った
【コメント】両陣営にとって一番こわいのお嬢
「――皆様」
穏やかな声がした。
鈴村さんが、座敷の隅から膝を進めて、ちょうど鴉山様とラクロワ様の間に座り直していた。
膝の前に、竹の皮の包みを三つ。そのうちのひとつを、そっと解く。串の匂いが、木屑と埃の匂いの中に、ふわりと広がった。
「冷めてしまいましたが、よろしければ」
誰も、手を伸ばさなかった。
鈴村さんは、気にした様子もなく、包みを広げたまま、両手を膝に置いた。
「串屋ふぜいが口を挟むのは、筋違いと承知しております。ですが、このままでは港が開かず、下町が干上がります。私の炭も、坂の雑貨屋の蝋燭も、もう底をつきかけております」
鈴村さんは、鴉山様に頭を下げ、それからラクロワ様にも、同じだけ頭を下げた。
「荷揚げ場の番を、両方から同じ数ずつ出していただけませんか。詰所の帳面は、どちらのものでもない場所に置く。揉め事が起きたら、まず私のところへお知らせいただく。串を焼きながらで恐縮ですが、話を聞くくらいはできますので」
鴉山様は、黙っていた。
ラクロワ様も、黙っていた。
「それに」
鈴村さんは、少しだけ、わたくしの方へ目を向けた。
「港でまた揉め事が起きれば、九条院様がいらっしゃいます。九条院様は、悪いことをなさる方がいれば、どなたの側でも、分け隔てなくお片付けになる方です。……揉めた方は、揉めた相手ごと、でございます」
座敷が、しんと静まった。
「お互い、それは損でございましょう」
【コメント】うわ
【コメント】お嬢を抑止力として使った
【コメント】串屋の親父、交渉うま
【コメント】「揉めた方は、揉めた相手ごと」
【コメント】庭の跡を背景にそれ言うの、説得力しかない
わたくしは、日傘の陰で、小さく頷いた。
鈴村さんは、よく分かっていらっしゃる。
「ええ。その通りですわ」
黒い羽織の方の誰かが、息を呑む音がした。
鴉山様が、長く息を吐いた。
それから、鈴村さんの広げた包みから、冷めた串を一本、手に取った。
「……串屋の顔を、立てる」
ひと口かじって、飲み込む。
「番は、うちから五人出す。帳面は、あんたの屋台に置け」
「では、私どもからも五人」
ラクロワ様も、手袋を外して、串を一本取った。
口に運ぶ前に、ほんの一瞬だけ、鈴村さんの方を見た。何かを確かめるように。鈴村さんは、いつもの笑顔で、軽く会釈を返しただけだった。
「ムッシュ鈴村の仲裁であれば、異存はございません」
【コメント】両方串食べた
【コメント】手打ちだ
【コメント】串で手打ち
【コメント】港、開くぞ
【コメント】荷揚げ場の人たち、やっと仕事できる
鴉山様は、串を食べ終えると、尾崎様の方を見ないまま言った。
「連。港の件が片付くまで、お前は屋敷から一歩も出るな」
「……はい」
「カルティエへの借りは、お前の稼ぎから払え。月ごとに、きっちりとな」
「はい」
尾崎様は、畳に額がつくほど、深く頭を下げた。
その背中が、少しだけ震えていた。
*
屋敷を出ると、門のあった場所で、あとから出てきた鈴村さんに呼び止められた。
「九条院様。今日は、ありがとうございました」
「わたくしは、悪い方々を片付けただけですわ」
「ええ。それで、話がまとまりました」
鈴村さんは、深く頭を下げた。
「九条院様がいらっしゃるところでは、いつも、物事がよく動きます」
前にも、同じことを言っていただいた気がする。
わたくしは、日傘を傾けて、にっこりと微笑んだ。
「お役に立てたのでしたら、何よりですわ」
背後で、鴉が一羽、短く鳴いた。




