第40話お点前、頂戴いたしますわ
黒鴉組の屋敷は、下町の東の外れ、古い堀割に沿った長い塀の奥にあった。
門の瓦の上に、本物の鴉が三羽、並んでとまっていた。わたくしが門の前に立つと、三羽そろって首を傾げ、それから、何事もなかったように毛繕いに戻った。
門番の若い方が二人、わたくしの日傘を見て、背筋を伸ばした。
「九条院瑠璃華ですわ。組長様から、お招きをいただいておりますの」
「……伺っております。どうぞ」
門番の方の声が、少しだけ上ずっていた。
【コメント】こんにちは
【コメント】ヤクザの屋敷来た
【コメント】門番、完全にビビってる
【コメント】倉庫の件、組の中でも知れ渡ってるな
【コメント】お嬢、今日はお茶葉持ってないの?
【コメント】黒鴉組は自分とこのお茶出すだろ、たぶん
玉砂利の敷かれた庭を、飛び石づたいに進む。
苔むした石灯籠。水の澄んだ池。錦の鯉が一匹、わたくしの影に寄ってきて、何ももらえないと分かると、ゆっくりと離れていった。
縁側の角を曲がると、奥の座敷の障子が、一枚だけ開いていた。
座敷には、先客がいた。
「おや。九条院様」
鈴村さんだった。
座敷の隅に正座して、膝の前に、竹の皮の包みを三つ並べている。いつもの前掛けは外していた。
「まあ、鈴村さん。どうしてこちらに」
「港を開けていただけないかと、お願いに上がりまして。炭が、いよいよ今日で尽きそうなものですから」
鈴村さんは、困ったように笑った。
それから、座敷の奥の方へ、軽く頭を下げた。
「親分さんにも、お時間をいただいてしまって」
【コメント】鈴村さん!?
【コメント】ヤクザの屋敷に串屋の親父が正座してる
【コメント】港開けてくれって直談判しに来たのか
【コメント】度胸ありすぎる
【コメント】荷揚げ場でも両方に串配ってたらしいぞ
【コメント】この人、実はすごい人なんじゃ
座敷の奥、床の間を背にして、老人がひとり座っていた。
白髪を短く刈り込んだ、痩せた方だった。紺の着流しに、黒い羽織。その老人がそこに座っているだけで、座敷の空気が一本の芯を通されたように、まっすぐになっていた。
膝の前に、風炉と釜。湯の沸く、しゅんしゅんという小さな音。
「鴉山だ」
老人は、わたくしを見上げて、短く言った。
「よく来たな、お嬢さん。まあ、座ってくれ」
その斜め後ろに、尾崎様が控えていた。
額の布は、もう取れていた。わたくしと目が合うと、黙って頭を下げた。
わたくしは、老人の正面に用意された座布団の前で、裾を整えて膝をついた。
座敷に上がってまで日傘を開いたままでいるほど、はしたなくはない。日傘は閉じて、脇に置いた。
「鴉山様。本日は、お招きに与りまして」
「堅苦しいのはいい。茶を点てる。飲んでいけ」
鴉山様は、柄杓を取った。
【コメント】組長自ら点てるの!?
【コメント】茶道だ
【コメント】カルティエの時は給仕が淹れてたのに
【コメント】こっちは親分が手ずから
【コメント】格の見せ方が真逆
【コメント】お嬢、正座できるの?
【コメント】VRだからいけるだろ
釜から湯を汲む。茶碗に注ぐ。茶筅が、しゃかしゃかと細かい音を立てる。
節くれだった指が、少しも迷わずに動いていた。
差し出された茶碗は、黒い楽焼だった。
深い緑の泡が、器の底の暗さの中で、ひと際鮮やかに見えた。
「お点前、頂戴いたしますわ」
わたくしは、茶碗を両手で受け取り、正面を避けて二度回し、口をつけた。
苦い。けれど、その奥に、甘さがあった。
「……結構なお点前でございました」
「ほう」
鴉山様の眉が、わずかに上がった。
「作法を知ってるのか。どこで習った」
「お嬢様の嗜みですもの」
本当は、半年の一人稽古のあいだに、動画を何本も見て覚えたのだけれど。
【コメント】できてる
【コメント】茶碗ちゃんと回してる
【コメント】お嬢、変なとこで教養ある
【コメント】爆破以外はちゃんとお嬢様なんだよな
【コメント】爆破以外は
鴉山様は、自分の分の茶を点てて、ひと口で飲み干した。
茶碗を置く音が、座敷に小さく響いた。
「さて。お嬢さん」
「はい」
「倉庫の件は聞いた。うちの若いのが八人、羽織を裏返して、夜討ちをかけた。それをあんたが、倉庫ごと片付けた」
「ええ」
「連が、あんたのとこへ詫びに行ったそうだな」
「ご丁寧に、頭を下げていただきましたわ」
鴉山様は、斜め後ろの尾崎様を、振り返りもせずに言った。
「こいつの不始末は、こいつが払う。カルティエへの借りも含めてな。けじめは、うちの中でつける。……それが、うちの流儀だ」
尾崎様が、畳に両手をついて、深く頭を下げた。
「それからな。串屋の」
鴉山様は、座敷の隅の鈴村さんに目を向けた。
「連が、世話になったそうだな。港で頭を割られたあと、屋台で手当てしてもらったと聞いた」
「いえ、とんでもない。串を一本、お出ししただけでございます」
鈴村さんは、穏やかに首を振った。
「お若い方が怪我をしていらしたら、放ってはおけませんので」
【コメント】鈴村さん、どこまでもいい人
【コメント】串屋の親父、黒鴉組の組長に顔が利くの強すぎる
わたくしは、小さく頷いた。
やはり、そうだったのだ。あの夕暮れの屋台で、鈴村さんは手当てをして差し上げていたのだ。
鴉山様は、もう一度わたくしの方へ向き直った。
目の奥に、湯の沸く音と同じくらい静かな、けれど少しも冷めていない何かがあった。
「そこで、頼みだ。お嬢さん」
「なんですの?」
「港のことから、手を引いてもらいたい」
しゅんしゅんと、釜が鳴っていた。
「港は、うちとカルティエの話だ。縄張りも、筋も、借りも。よそ者が一発でまとめて吹っ飛ばしていい話じゃねえ。……あんたが誰の側でもねえのは、連から聞いた。だから、どっちの側にも立たずに、外にいてくれ」
「まあ」
わたくしは、脇に置いた日傘の柄に、そっと指を添えた。
「お申し出は、よく分かりましたわ。けれど、鴉山様」
「なんだ」
「悪い方々が港にいらっしゃる限り、わたくしは、外にいるわけには参りませんの」
鴉山様は、黙ってわたくしを見ていた。
尾崎様が、顔を上げかけて、また伏せた。鈴村さんは、膝の上で手を重ねたまま、少しも動かなかった。
「……悪い方々ってのは、どっちのことだ」
「悪いことをなさる方々ですわ」
鴉山様の口の端が、ほんのわずかに、動いた気がした。
笑ったのか、呆れたのか、わたくしには分からなかった。
【コメント】どっちのことだ(正論)
【コメント】悪いことをする方々(答えになってない)
【コメント】組長、ちょっと笑った?
【コメント】呆れの方だと思う
【コメント】連の報告通りの人だった、って顔
そのときだった。
庭の方で、鴉が一斉に鳴いた。
門の瓦にとまっていた三羽が、羽音を立てて舞い上がる。続いて、玉砂利を踏み荒らす、いくつもの足音。門番の若い方の、短い叫び声。
尾崎様が、弾かれたように立ち上がった。
「親父!」
「騒ぐな」
鴉山様は、座ったまま、柄杓を釜の縁に置いた。
開いた障子の向こう、庭の飛び石の上に、灰色の上着の男たちが、次々と姿を現していた。




