第39話閑話 荷揚げ場の鉤は、ひとつ足りない
☆ 港の日雇い人足視点 ☆
港が閉まって、二日目になる。
荷揚げ場の入口には、右に黒い羽織が三人、左に灰色の上着が三人、向かい合って立っている。どっちも腕を組んで、どっちも一歩も動かない。その間を、荷車の一台も通らない。
起重機は首を垂れたままだ。着いた船は桟橋に寄せることもできずに、沖で錨を下ろして待っている。
俺は、積み上げた空の木箱に腰かけて、その睨み合いを眺めていた。
ここで荷揚げの日雇いをやって、半年になる。
朝、荷揚げ場の詰所で名前を書いて、壁から自分の名札の下の鉤を借りて、日が暮れるまで木箱を担ぐ。日当は、こっちの銭で一握り。向こうの金に替えると、コンビニで弁当が一個買えるかどうかだ。
それでも、仕事の終わりに視界の端の所持金が少しずつ増えていくのは、悪くなかった。向こうの職場じゃ、何を担いでも数字なんか出ない。
今は、その数字が一つも増えない。
「……おう、まだいたのか」
隣に、同じく日雇いのプレイヤーが腰を下ろした。俺より少し若い、腕だけやたら太い男だ。名前は知らない。お互い、詰所の帳面で見た字を覚えているだけだ。
「帰っても、やることないんで」
「だよな」
男は、太い腕を組んで、しばらく黙っていた。それから、ぼそりと言った。
「……俺、鞍替えしようかと思ってる」
「何に」
「ヴィラン。NPCを一人倒せば、ここの日当の三日分は落ちる。倉庫ひとつ抜けば、ひと月分だ。賞金首の、倉庫破りの三人組なんか、配信までして、ひと晩で俺の半年分稼いだってよ」
「賞金首になるだろ」
「なるさ。でも、賞金首ってのは、狩られるまでは稼ぎ放題なんだ」
俺は、膝の上で指を組み直した。
返事は、しなかった。
男は、入口の睨み合いを顎で示した。
「右の三人。一昨日の夜、倉庫の前でお嬢に吹っ飛ばされた連中だぞ」
「……知ってる」
知っている。
一昨日の夜、俺は詰所の二階で寝ていた。窓が全部いっぺんに鳴って、飛び起きて外を見たら、奥の倉庫がなくなっていた。光の粒が、夜の海の上を、八つ昇っていくのが見えた。
あの晩の八人は、今朝には何事もなかったような顔で戻ってきていた。入口の右の三人も、そのうちだ。
裏返しだった羽織を、ちゃんと表に着直して。
倉庫の方も、昨夜のうちに建っていた。今朝見たときには、もう、金の飾り文字の扉まで元通りで、油の染みひとつ残っていなかった。
この街は、そういうふうにできている。プレイヤーがやったことは、しばらくすると元に戻る。建物も、人も。
詰所の壁には、日雇いの鉤が、名札と一緒に並んで掛けてある。
その列の真ん中に、一本分、隙間が空いている。
トメさんの鉤だ。
NPCの、年寄りの人足だった。いつも俺の隣で木箱を担いで、昼には握り飯を半分くれて、「兄ちゃんは腰で担ぐんじゃない、脚で担ぐんだ」と、毎日同じことを言った。
一昨日の、倉庫の件のあとだ。港の外れで、黒鴉組の若いのと、カルティエに雇われた人足が揉めて、刃物が出た。黒鴉組の方は、それきり戻らなかったらしい。トメさんは、たまたまそこを通りかかって、巻き込まれた。
トメさんは、戻ってこない。
NPC同士でやったことは、戻らない。
これも、この街で半年暮らせば、誰でも知っている。
「……なあ」
隣の男が、声を落とした。
「お嬢に吹っ飛ばされた八人は、戻ってきた。倉庫も戻った。トメさんは、戻ってこない」
「ああ」
「てことはさ。あのとき、揉めてた連中ごと、お嬢がまとめて吹っ飛ばしてりゃ――」
「言うなよ」
自分でも、思ったより強い声が出た。
「それ、言うな」
「……悪い」
男は、黙って自分の太い腕を眺めた。
俺も、黙って入口の睨み合いを眺めた。
分かっている。
たぶん、この港で働いてるプレイヤーは、みんな一度はそれを考えた。
でも、それを口に出したら、何かがおかしくなる。あのお嬢が、どこかでそれを聞いたら。「あら、それでしたら」と日傘を開いて、今度は港ごと、きれいにしてしまう気がする。
善意で。
一片の迷いもなく。
だから、誰も言わない。
配信のコメント欄でも、掲示板でも、それだけは誰も書かない。示し合わせたわけでもないのに、なんとなく、そういうことになっている。
積み荷の陰では、ほかの日雇いたちが車座になって、暇に任せて噂話をしていた。プレイヤーも、NPCも混じっている。
「お嬢、カルティエに雇われたんだってな」
「いや、金は断ったって配信で言ってたぞ。お茶飲んだだけだって」
「お茶飲んだだけで倉庫ひとつ消すのかよ」
「消したのはカルティエの倉庫だろ。雇われてたら消さねえだろ」
「じゃあ黒鴉組の側か?」
「黒鴉組の若いのを八人消してんだぞ」
「……じゃあ、どっちの側なんだよ」
「今度は黒鴉組の親分から、お茶に呼ばれたらしい」
「またお茶かよ」
誰かが、乾いた笑い声を上げた。
誰も続かなかった。お茶に呼ばれるたびに、何かがひとつずつ消えていく。それを、ここにいる全員が知っていた。
トメさんなら、何て言っただろう。
たぶん、「どっちの側でもいいから、荷を通してくれ」とだけ言って、握り飯をかじっていた気がする。
入口の方で、少しざわめきが起きた。
黒い羽織と灰色の上着の間を、前掛けをした男がひとり、のんびりと歩いてきた。手に、竹の皮の包みをいくつも提げている。
坂の角で屋台をやってる、串屋の親父だった。
「朝早くから、ご苦労さまです」
親父は右の三人に包みをひとつずつ渡して、それから左の三人にも、同じようにひとつずつ渡した。
黒い羽織の方が、何か言いかけた。灰色の上着の方も、何か言いかけた。親父は、どっちにもにこにこと頭を下げて、それだけで、言いかけた言葉を引っ込めさせてしまった。
「港が開かないと、うちの炭も尽きてしまいまして。困っているのは、お互いさまですから」
親父は、空になった手を前掛けで拭いて、荷揚げ場の奥へ歩いていった。灰色の上着の連中が固まっている、白い石の商館の方へ。
誰も、止めなかった。
「……変わった人だな」
隣の男が言った。
「両方に串配って、ど真ん中を歩いてった」
「度胸あるよな」
「度胸っていうか……なんか、慣れてる感じ」
俺は、答えなかった。
答えようがなかった。串屋の親父のことなんて、串の味しか知らない。
立ち上がって、詰所の方へ歩いた。
壁の鉤の列の前で、足を止める。隙間の空いたところに、トメさんの名札だけが、まだ釘に引っかかっていた。
俺は、自分の名札の下から鉤を外して、その隙間に掛け直した。
代わりに、俺の名札の下が空いた。
意味はない。
明日になっても、トメさんは戻ってこない。
ただ、列の真ん中に隙間が空いているのが、なんとなく嫌だった。
詰所を出ると、港の空を、上層の連絡艇が一隻、音もなく横切っていった。腹に流れる青い文字は、ここからじゃ遠すぎて読めない。
あっちの街では、たぶん、港が閉まっていることも、トメさんのことも、誰も知らない。
なんで、戻るものと戻らないものがあるんだろうな。
ふと、そう思った。
思っただけで、それ以上は考えなかった。考えても日当は出ない。
俺は、空の木箱に戻って腰を下ろし、港が開くのを待った。




