第37話倉庫を狙う方々は、もういらっしゃいませんわ
月が、桟橋の真上まで昇っていた。
荷揚げ場から人の気配が消えて、ずいぶん経つ。起重機の鉄の腕は、首を垂れたまま動かない。波が杭を叩く音と、どこかで綱が軋む音だけが、規則正しく続いていた。
倉庫の前では、番の老人が、火の消えかけた煙草を指に挟んだまま、椅子で船を漕いでいる。
【コメント】まだ?
【コメント】もう三時間座ってる
【コメント】お嬢、微動だにしない
【コメント】日傘、夜なのに開いてる
【コメント】月よけ
【コメント】寝落ちしそう
【コメント】帳簿の話、ガセだったんじゃ
わたくしは、木箱の上で、背筋を伸ばしたままでいた。
お見守りする、と申し上げたのだから、お待ちするだけのことだ。
見上げると、浮島の縁に、細かな灯りが列をなして瞬いていた。提灯の色ではない。青白く、揺れない光。上層の方々は、夜でも眠らないらしい。
少し前に、老人が一度だけ目を覚まして、足もとの小さな火鉢から、湯呑に白湯を注いでくれた。
「嬢ちゃん、何を待ってるんだい」
「悪い方々を」
「……物好きだねえ」
老人は、それ以上は何も聞かずに、また椅子に沈んでいった。
湯呑は、まだ少しだけ温かい。
【コメント】じいさん優しい
【コメント】白湯もらってる
【コメント】このじいさんには何も起きませんように
【コメント】フラグ立てるな
ことり、と。
石畳の向こうで、小さな音がした。
荷揚げ場の入口の暗がりから、人影が滲み出てきた。ひとつ、ふたつ。数えるうちに、八つになった。
黒い羽織。けれど、背中に紋はない。わざわざ裏返して着ているらしかった。手に手に、布で口を縛った壺と、まだ火の入っていない松明を提げている。
【コメント】きた
【コメント】本当に来た
【コメント】羽織、裏返してる
【コメント】紋隠してるじゃん
【コメント】正面から名乗る組じゃなかったのか
【コメント】壺、油だろあれ
男たちは、居眠りしている老人の脇を、足音を殺してすり抜けた。金の飾り文字の扉の前に、黒い背中が群がる。
誰かが、低い声で言った。
「……本当に、番はじじいひとりだ」
「言われた通りだな」
「若頭には内緒だぞ。あの人の顔に泥塗られたまま、黙ってられるかよ」
壺の口の布が、ほどかれた。扉に、どろりとしたものが浴びせかけられる。
わたくしは、木箱から立ち上がった。
「ごきげんよう、皆様」
八つの顔が、一斉にこちらを向いた。
「夜分に、倉庫へ何のご用かしら。お帰りいただけるのでしたら、わたくしも、何も申しませんわ」
撃つ前に、一言。お約束は、守らなくてはいけない。
【コメント】一言かけた
【コメント】スタロとの約束
【コメント】お帰りいただけるのでしたら(帰らない)
「……日傘の女」
「悪辣非道のお嬢様だ」
「カルティエに雇われやがったか!」
「雇われてはおりませんわ。お茶をいただいただけですの」
返事は、松明だった。
扉の前の男が火打ち石を鳴らし、火の入った松明を、わたくしの方へ振りかぶる。
椅子の上で、老人が、はっと顔を上げた。背後の物音に、首だけで振り返る。
――あの、柔らかい目。
呼吸をひとつ。
――寝ぼけて滲んだ視界。扉に群がる、裏返しの黒い羽織。油に濡れた金の文字。振りかぶられた火。
放った。
白。
音が、夜の港を一度に叩いた。
起重機の首が揺れる。桟橋につながれた小舟が、一斉に跳ねる。荷揚げ場の向こうの倉庫の窓という窓が、同じ瞬間に震えた。
煙が、潮風に流されていく。
倉庫の前には、椅子がひとつ、残っていた。
その上で、番の老人が、口を半開きにしたまま座っていた。指の間の煙草から、まだ細く煙が上っている。
その背後にあったはずの倉庫は、なかった。
金の飾り文字の扉も、石の壁も、屋根も。月明かりの下に、平らな床と、ばらばらと降ってくる木屑だけがあった。
光の粒が、八つ。
夜の海の上を、ゆっくりと昇っていった。
【コメント】……
【コメント】倉庫が
【コメント】守りに来た倉庫が
【コメント】守る対象ごといった
【コメント】じいさんだけ無事
【コメント】煙草まだ吸ってる
【コメント】じいさん、今起きて何が起きたか分かってない顔
【コメント】依頼達成(倉庫なし)
【コメント】これ依頼失敗では?
わたくしは、日傘を傾けて、平らになった床を眺めた。
倉庫は、なくなってしまった。
けれど、油の壺を抱えた方々も、ひとり残らずいなくなった。帳簿も、火にくべられるより先に、ずっと穏やかに片付いた。
火を放たれて、港じゅうに燃え広がっていたかもしれないことを思えば、ずいぶん静かに済んだものだ。
「倉庫を狙う方々は、もうひとりもいらっしゃいませんわ」
【コメント】静かに済んだ(爆音)
【コメント】今、港じゅうの窓が揺れてたが
【コメント】比べる相手がおかしい
【コメント】お嬢の中では完全に成功してる
桟橋の方から、足音が近づいてきた。
急ぐでもなく、乱れるでもない、石畳を確かめるような靴音だった。
ラクロワ様が、角灯をひとつ提げて、倉庫の跡の縁に立った。
白い手袋の指先で、灯を少しだけ持ち上げる。平らな床。椅子の老人。昇っていく最後の光の粒。それから、わたくし。
順番に、ひとつずつ。
「……予想以上でした」
それだけ、言った。
顔色は、少しも変わっていなかった。
「帳簿は、ご無事ではなさそうですけれど」
「ご心配なく。写しがございますので」
ラクロワ様は、角灯を下ろして、穏やかに微笑んだ。
「お茶のお礼としては、いささか多すぎるくらいです、マドモアゼル」
【コメント】写しあるんかい
【コメント】じゃあ最初から燃やされても困らなかったんじゃ
【コメント】このおじさん、何のためにお嬢呼んだの
【コメント】倉庫一個より、何か別のものが欲しかったんじゃ……
【コメント】こわ
【コメント】お嬢、たぶん今のお礼を言葉通りに受け取ってる
わたくしは、日傘を閉じて、スカートの裾をつまんだ。
「お粗末さまでございました」
荷揚げ場の入口の暗がりで、誰かが駆け出していく足音がした。
下町の方へ。坂の方へ。黒鴉組の縄張りの方へ。
足音は、すぐに夜に溶けて、聞こえなくなった。




