第36話お代では、動きませんの
「うちの店、郵便受けじゃないんだけど」
小夜さんは、帳場の上に一枚の封筒を置いた。
厚手の、象牙色の紙だった。封蝋は黒。宛名には、流れるような字で、九条院瑠璃華様、とある。
「今朝、知らない男の人が持ってきたの。瑠璃華様にお渡しください、って。上等な靴履いてた」
わたくしは、封を切った。
中の一枚には、今日の日付と、港の新しい桟橋の名と、刻限だけが記されていた。それから、一行。
――お約束のお茶を。
「まあ。ラクロワ様からですわね」
「……ねえ」
小夜さんが、帳場に肘をついて、低い声で言った。
「あの人、うちの店の場所、知ってたってことだよね。わたし、名乗ってないのに」
「お優しい方ですもの。わたくしの居場所を、どなたかにお尋ねになったのでしょう」
「それが嫌なんだってば」
【コメント】おはよう
【コメント】招待状きた
【コメント】封蝋黒いの、こわ
【コメント】小夜ちゃんの店、特定されてる
【コメント】小夜ちゃんの危機感が正しい
【コメント】お嬢の危機感がゼロ
小夜さんは、長い溜め息をついて、棚から茶筒をひとつ下ろした。
量りもせずに、紙袋へ茶葉を移す。その手つきが、いつもより少し乱暴だった。
「はい。約束したんでしょ、こっちで用意するって」
「ありがとうございます、小夜さん。ご一緒には」
「行かない。お店あるし」
小夜さんは紙袋の口を折って、わたくしの手に押しつけた。
それから、手を離さないまま、もう一度だけ言った。
「……何か頼まれても、すぐに頷かないでね」
「善処いたしますわ」
「それ、一番信用しちゃいけない返事だって、前にも言ったよね」
【コメント】善処
【コメント】伝統芸
【コメント】小夜ちゃん、完全に保護者
【コメント】茶葉だけは渡すのが優しい
*
港の新しい桟橋は、荷揚げ場の喧騒から少しだけ外れたところにあった。
そのたもとに建っていたのは、白い石を切り出して積んだ、四階建ての商館だった。窓という窓に硝子が嵌まっていて、昼の光を跳ね返している。周りの古い倉庫と並ぶと、そこだけ、別の街の建物を運んできて置いたように見えた。
入口の脇に、上層の連絡艇が一隻、音もなくつながれていた。
迎えに出てきた給仕に案内されて、奥へ進む。
硝子張りの小部屋に入ると、扉が閉じて、床が静かに浮き上がった。
【コメント】エレベーターだ
【コメント】下町にエレベーター
【コメント】ここだけ世界観違う
【コメント】カルティエ・ノワール、上層と繋がってるのか
【コメント】お嬢、表情に出さないようにしてるけど目が輝いてる
四階の部屋は、港を一望できた。
白い卓の上に、薄い光の板が一枚、浮かんでいる。触れてもいないのに、そこに品書きの文字が、次々と流れては消えていった。
「ようこそ、マドモアゼル」
ラクロワ様は、窓辺の椅子から立ち上がって、わたくしを迎えた。今日も、白い手袋をしていた。
「ごきげんよう。お招きに与りまして。こちら、お約束の茶葉ですわ」
「これはどうも」
ラクロワ様は、紙袋を受け取って、口を少しだけ開き、香りを確かめた。
それから、給仕にそのまま手渡した。
「このままお淹れして。品書きのものは、下げてかまいません」
光の板が、ふっと消えた。
【コメント】小夜ちゃんの茶葉優先した
【コメント】上層の品書き消えた
【コメント】この人、相手の持ってきたものを立てるの上手い
【コメント】これが接待
【コメント】お嬢、完全に気分よくなってる
お茶は、美味しかった。
小夜さんのお店の茶葉は、硝子の器で淹れても、やはり小夜さんのお店の味がした。
ラクロワ様は、しばらく当たり障りのないことを話した。港の潮の話。上層の天気の話。わたくしの日傘の布地の話。どれも、わたくしが心地よく答えられることばかりだった。
三杯目を注いでもらったところで、ラクロワ様は、器を卓に置いた。
「実は、ひとつ、お耳に入れておきたいことがありまして」
「なんですの?」
「今夜、黒鴉組の若い方々が、私どもの倉庫を訪ねていらっしゃるようです。あの荷揚げ場の、いちばん奥の」
ラクロワ様は、窓の外を指さした。
硝子越しに、金の飾り文字の扉が、小さく見えた。
「先日の、ムッシュ尾崎への貸し。あれを記した帳簿が、あの倉庫にございましてね。帳簿ごと燃やしてしまえば、貸しもなかったことになる。……若い方は、そういう近道を考えがちです」
「まあ。夜討ちですの」
「正面から名乗る、という流儀の方々だったはずなのですがね」
ラクロワ様は、残念そうに首を振った。
「倉庫には、番の老人がひとりいるきりです。私どもの雇い人たちは、先日の件で、少々怯えておりまして」
「それで、わたくしに」
「港の夜を、見守っていただけないかと」
【コメント】あー
【コメント】来た
【コメント】これ、お嬢を用心棒にする気だ
【コメント】黒鴉組が悪者に見えるように話してる
【コメント】帳簿の話、本当かどうか分からんぞ
【コメント】小夜ちゃんの「すぐ頷かないで」思い出せ
【コメント】三階です 頷く前に三秒数えてください
わたくしは、器を両手で包んだまま、少しだけ考えた。
夜陰に紛れて、番の老人ひとりしかいない倉庫を、火で襲う。
正面から名乗るのが流儀の方々が、それをする。
それは、悪辣非道な方々のなさることだ。
「もちろん、ただでとは申しません」
ラクロワ様が、懐から小さな革袋を取り出して、卓の上に置いた。
置いたときの音で、中身の重さが分かった。
「お気持ちとして」
わたくしは、その革袋を見て、それから、ラクロワ様の顔を見た。
「お下げくださいまし」
「……ほう」
「お嬢様は、お代では動きませんの」
わたくしは、器を卓に戻して、日傘を膝の上に立てた。
「お招きいただいて、美味しいお茶をいただきました。困っていらっしゃる方のお話を伺いました。それで、十分ですわ。……今夜の港は、わたくしがお見守りいたします」
ラクロワ様の指が、革袋の上で、ほんの一瞬だけ止まった。
初めて見る間だった。笑顔は崩れていないのに、その一瞬だけ、目の奥で何かを数え直したように見えた。
「……これは、失礼を」
ラクロワ様は、革袋を懐に戻した。
「では、お茶のお礼、ということにさせてください」
「ええ。それでしたら、喜んで」
【コメント】断った!?
【コメント】金いらないの!?
【コメント】おじさん、一瞬止まったぞ
【コメント】マフィアの計算が一瞬狂った顔
【コメント】タダで引き受けるのが一番こわいんだよな、相手からすると
【コメント】頷くの早い(三秒経ってない)
【コメント】三階です 一秒でした
日が傾きはじめた頃、わたくしは商館を出た。
荷揚げ場の奥。金の飾り文字の扉の前で、腰の曲がった老人がひとり、椅子に腰かけて煙草をふかしていた。倉庫番の方だろう。
わたくしは、その前を通り過ぎながら、軽く会釈をした。老人は、ちらりとこちらを見上げて、すぐに目を海へ戻した。
柔らかい目だった。
わたくしは、倉庫の向かいに積まれた木箱のひとつに腰を下ろして、日傘を開いた。
お嬢様は、追いかけない。
悪い方々には、いらしていただくものだ。




