第35話いつか、お茶でも
白い手袋の男は、急ぐ様子もなく、倉庫の外階段を下りてきた。
灰色の外套。襟元に、細い銀の鎖。手には何も持っていない。
荷揚げ場の石畳に靴音が響くたびに、得物を振り上げていた男たちが、一人、また一人と腕を下ろしていく。誰に命じられたわけでもないのに。
【コメント】誰
【コメント】手叩いただけで全員止まった
【コメント】上品なおじさん来た
【コメント】カルティエ・ノワールの偉い人じゃね
【コメント】声が優しいのが逆にこわい
男は、膝をついた尾崎様の前で足を止めた。
見下ろすでもなく、屈むでもなく、ちょうど話しやすい距離に立って、胸元に手を当てる。
「カルティエ・ノワールのエドモン・ラクロワと申します。初めまして、ムッシュ尾崎」
「……名乗りなんざ、いらねえ」
尾崎様は、額の血を手の甲で拭って、立ち上がろうとした。膝が、一度だけ崩れた。
それでも、立った。
「この荷揚げ場は、黒鴉組が預かる。そう言った」
「ええ、確かに伺いました。よく通るお声でしたね」
ラクロワ様は、にこやかに頷いた。
「ですが、あいにくこちらの倉庫には、今朝着いたばかりの荷がございまして。先ほど、そのうち七箱ほどが海へ落ちました。中身は上層向けの硝子細工です」
手袋の指が、海の方を示す。波間に、木箱の角がいくつか浮き沈みしていた。
「お代は、組長殿にお回ししておきます。鴉山様でしたね。お若い方の不始末は、上の方が収めるのが、そちらの流儀と伺っておりますので」
【コメント】うわ
【コメント】請求書きた
【コメント】殴り返さずに組長に請求するの一番エグい
【コメント】これがマフィアのやり方
【コメント】若頭、完全に子ども扱いされてる
尾崎様の顔から、色が消えた。
怒鳴るかと思った。けれど、尾崎様は奥歯を噛んだまま、低く言っただけだった。
「……親父に、回すな」
「では、どなたに?」
「俺に回せ。俺が払う」
「結構です。では、ムッシュ尾崎への貸し、ということで」
ラクロワ様は、手袋を片方だけ外して、懐から小さな帳面を取り出した。何かを書きつけて、また懐に戻す。
それだけだった。
尾崎様は、しばらくその帳面のあった場所を睨んでいた。
それから、黒い羽織の裾を翻して、荷揚げ場の出口へ歩き出した。人垣が、また割れる。すれ違いざま、尾崎様の目が、一瞬だけこちらを掠めた。
荷馬車の上で日傘を差しているわたくしを、見世物でも見るような目で。
【コメント】若頭、帰った
【コメント】これ絶対あとで爆発するやつ
【コメント】貸しを作られたヤクザ、一番危ない
【コメント】お嬢のこと睨んでったぞ
【コメント】荷台の上で傘さしてたら、そりゃ見る
ラクロワ様が、こちらを向いた。
荷台の樽。御者台の老人。帳面を胸に抱えた小夜さん。日傘のわたくし。
視線が、ひとつずつ、順番に置かれていくのが分かった。値札を確かめるみたいに。
「おや」
ラクロワ様は、わたくしの前で、軽く首を傾げた。
「歓楽街の瓦版で、お名前を拝見しました。悪辣非道のお嬢様、ですね」
「ごきげんよう。九条院瑠璃華ですわ」
「お噂はかねがね。坂の中ほどを、ずいぶん風通しよくなさったとか」
「悪い方々がいらっしゃいましたので」
「なるほど」
ラクロワ様は、何かを面白がるように、少しだけ目を細めた。
「先ほどは、手を出されませんでしたね。てっきり、この荷揚げ場も風通しよくなさるものかと」
「本日は、お使いのお供ですの」
「お使い」
ラクロワ様の目が、荷台の樽から、小夜さんへ移った。
小夜さんが、帳面を抱える腕に、少しだけ力を入れたのが分かった。
「賢明なご友人をお持ちだ。……私の倉庫にとっても、幸いでした」
【コメント】小夜ちゃんが止めたの、見てたんだ
【コメント】全部見てる
【コメント】このおじさん、観察の仕方が情報屋っぽい
【コメント】小夜ちゃんに目つけないでほしい
【コメント】三階です この人、被害者の会には入らなそうですね
ラクロワ様は、外した方の手袋をはめ直して、帽子もないのに、帽子のつばに触れるような仕草をした。
「それでは、マドモアゼル。いつか、お茶でも」
「まあ」
お招き、だった。
わたくしは、日傘を傾けて、にっこりと微笑んだ。
「喜んで。お茶の葉は、こちらでご用意いたしますわ」
「楽しみにしております」
ラクロワ様は、それだけ言って、倉庫の外階段を上っていった。
二階の扉が閉じると、荷揚げ場の男たちは、何事もなかったように木箱を担ぎはじめた。起重機の鉄の腕が、また低い唸りを上げた。
【コメント】お茶に誘われた
【コメント】マフィアの幹部とお茶会の約束するな
【コメント】お茶会って、あの広場の?
【コメント】カルティエ・ノワールの本拠地、消えない?
【コメント】お嬢、招待されたら絶対行くからな……
「……瑠璃華」
帰りの荷台で、小夜さんが、樽にもたれたまま言った。
「あの人とお茶するの、やめた方がいいと思う」
「どうしてですの? とても礼儀正しい方でしたわ」
「礼儀正しいから、やめた方がいいと思う」
わたくしは、首を傾げた。
小夜さんは、しばらく港の屋根を眺めてから、じろりとこちらを見た。
「それと。お茶の葉はこちらで用意する、って言ってたけど」
「ええ」
「それ、うちの店のでしょ」
「もちろんですわ。小夜さんのお店の茶葉が、いちばん美味しゅうございますもの」
「……褒められてるのに、巻き込まれてる気しかしない」
【コメント】巻き込まれてる
【コメント】広場のときも小夜ちゃんの茶葉だったな
【コメント】小夜ちゃんの店、毎回なにかの共犯にされてる
【コメント】次はマフィアのお茶会に茶葉を納品
*
樽を届け終えて、配信を閉じたのは、日が傾きはじめた頃だった。
鈴村さんは、三つの樽の蓋をひとつずつ開けて、匂いを確かめてから、深く頭を下げてくださった。港はいかがでしたか、と聞かれたので、見たままをお話しした。黒鴉組の若い方が、おひとりで殴り込んでいらしたこと。白い手袋の方が、手を打って止めたこと。
「そうでしたか」
鈴村さんは、帳面を閉じながら、穏やかに頷いた。
「大事にならずに、何よりでした」
拠点へ戻る途中、坂の上から、角の方を振り返った。
夕暮れの屋台の暖簾の下に、黒い羽織の背中が見えた。額に、白い布を巻いている。
尾崎様だった。
鈴村さんが、その前に湯呑を置いた。それから、屋台の縁に手をついて、少しだけ身を屈めた。何かを話しているらしい。ここからでは、声までは届かない。
尾崎様が、何か言い返した。鈴村さんは、穏やかに首を振って、串を一本、皿に載せた。
わたくしは、日傘の陰で、小さく微笑んだ。
鈴村さんの串は、悪い方が食べても、きっと美味しいのだ。
あの方は、どなたにでも、お優しいから。




