第34話おひとりで、殴り込みですの?
昨夜、瓦版屋を出たその足で、港の荷揚げ場まで下りてみた。
誰もいなかった。
積み上げられた木箱と、潮の匂いと、桟橋を叩く波の音。睨み合いの跡らしいものといえば、石畳に散らばった割れた酒瓶くらいのものだった。瓦版の墨が乾かないうちに、どなたも帰ってしまわれたらしい。
お招きするまでもない、と申し上げたのは、少しばかり早計だったかもしれない。
*
「おはよう、瑠璃華。……ほら、これ」
翌朝。日向雑貨店の前に、荷馬車が一台、停まっていた。
栗毛の馬が一頭、鼻を鳴らしている。御者台には、日に焼けた老人がひとり。荷台はがらんとしていて、藁が薄く敷いてあるだけだった。
「鈴村さんに頼まれたの。港の潮見屋さんに、串のタレの樽を預けてあるんだって。重いから、って、荷馬車まで頼んでくれて」
「まあ。お優しいこと」
「うちの荷車じゃ、樽ひとつで腕が抜けるからね」
【コメント】おはよう
【コメント】朝配信めずらしい
【コメント】馬車だ
【コメント】荷馬車な
【コメント】下町、馬なんだよな
【コメント】上層は浮遊艇飛んでるのに
角の方から、鈴村さんが歩いてきた。
前掛けを外した姿を見るのは、初めてだった。手には、紐で綴じた帳面が一冊。
「おはようございます、九条院様。小夜さんも、朝早くからすみません」
鈴村さんは、帳面を小夜さんに手渡した。
「潮見屋さんに、これを。代金は先に済ませてありますので、樽を受け取るだけで結構です」
「はい、預かります」
「それから」
鈴村さんは、わたくしの方へ向き直って、穏やかに頭を下げた。
「港は近頃、少々騒がしいと聞きます。九条院様がご一緒なら、小夜さんも心強いでしょう」
「お任せくださいまし。何かあれば、すぐに片付けて差し上げますわ」
「……片付けるのは、樽の積み込みだけにしてね」
小夜さんが、帳面を胸に抱えて言った。
鈴村さんは、何も言わずに笑っていた。いつもの、少しも揺れない笑顔だった。
【コメント】鈴村さん、朝から丁寧
【コメント】お嬢を護衛につけるの勇気ありすぎる
【コメント】港、消えない?
【コメント】樽の積み込みだけにしてね(念押し)
*
荷台に腰を下ろして、日傘を開いた。
車輪が石畳を噛むたびに、藁が小さく跳ねる。坂を下りきると、潮の匂いが強くなった。
「馬車の旅というのも、よいものですわね」
「荷馬車ね」
「荷馬車も、立派な馬車ですわ」
御者の老人が、肩を震わせていた。笑いを堪えているらしかった。
【コメント】荷台に日傘さしてる
【コメント】荷台の上だけ貴族
【コメント】じいさん笑ってる
【コメント】優雅に揺られてる(藁の上で)
港の手前で、頭上を影が滑っていった。
見上げると、白く細長い艇が、帆も翼も持たずに、音もなく浮島の方へ昇っていくところだった。腹に、青い光の文字が流れている。
「上層の連絡艇だよ」
小夜さんが、同じ空を見上げて言った。
「最近、港にも上の機械がちょっとずつ入ってきてるの。ほら、あれ」
小夜さんが指さした先で、桟橋の端に据えられた鉄の腕が、低い唸りを上げながら木箱を吊り上げていた。
「去年まで、あれ全部、人が担いでたのに」
【コメント】起重機だ
【コメント】港だけちょっと近未来
【コメント】下町にも上の技術、流れてきてんだな
【コメント】そのうち坂にもエレベーターつきそう
【コメント】お嬢が壊すからつかない
潮見屋は、荷揚げ場の奥の、古い石造りの問屋だった。
樽は、小夜さんの腰ほどもあった。店の若い衆が二人がかりで転がしてきて、荷台に載せる。三つ目の樽を押し上げたときだった。
荷揚げ場の向こうが、ざわついた。
人垣が、ひとりでに割れていく。その真ん中を、若い男がひとり、まっすぐに歩いてきた。
黒い羽織。背中に、翼を広げた鴉の紋。腰の刀には、手をかけてもいない。
男は、荷揚げ場のいちばん奥の倉庫の前で、足を止めた。
扉に、金の飾り文字が打ってある倉庫だった。
「黒鴉組若頭、尾崎連」
よく通る声だった。
「この荷揚げ場は、今日から黒鴉組が預かる。文句のある奴は、出てこい」
返事の代わりに、倉庫の扉が内側から開いた。
荒っぽい身なりの男たちが、十人、十五人と溢れ出してくる。手に手に、鉤や棍棒を持って。
【コメント】ひとりで来た
【コメント】正面から名乗った
【コメント】殴り込みだ
【コメント】黒鴉組の若頭、ひとりで乗り込んでくるの?
【コメント】カルティエ・ノワールの倉庫だろあれ
【コメント】出てきたの、雇われの荷揚げ人足っぽい
【コメント】多勢に無勢
尾崎様は、刀を抜かなかった。
最初に振り下ろされた棍棒を、半身でかわして、相手の手首を掴んで捻る。二人目の鉤を、奪った棍棒で打ち払う。三人目が、桟橋から海へ落ちた。
強い。
けれど、数が多すぎた。囲みが、じりじりと狭まっていく。
わたくしは、日傘の柄を握り直した。
悪辣非道な方々が、あんなにたくさん、ひとところに集まっていらっしゃる。
倉庫の屋根に、海鳥が一羽、止まっていた。あの目なら、荷揚げ場の奥まで――
「瑠璃華」
袖を、引かれた。
小夜さんが、帳面を胸に抱えたまま、わたくしの袖を掴んでいた。
「樽が先」
「……小夜さん。あちらに、悪い方々が」
「知ってる。見えてる。でも、樽が先」
小夜さんは、荷台の上の三つの樽を顎で示した。
「ここで吹き飛ばしたら、樽も潮見屋さんも一緒に消えるでしょ。このタレ、鈴村さんが何年も継ぎ足してきたやつなんだって。明日になったら戻るのかもしれないけど、わたしは嫌」
「……」
「お使いを頼まれたのは、わたし。あなたはついてきただけ。でしょ?」
わたくしは、日傘の柄から、そっと指を緩めた。
そうだった。今日の主役は、小夜さんのお使いだ。わたくしは、ご一緒しているだけ。
お供の者が、主役を差し置いて見せ場を攫うなど、はしたないことだ。
【コメント】小夜ちゃんが止めた
【コメント】止まった!?
【コメント】お嬢が撃つ前にやめたの、初めて見た
【コメント】樽が先
【コメント】タレに救われた荷揚げ場
【コメント】三階です 継ぎ足しのタレ、港を救う
【コメント】でも若頭ひとり、あれ死ぬぞ
荷揚げ場の奥で、尾崎様が膝をついた。
額から、赤いものが一筋、流れている。それでも、刀には手をかけない。囲んだ男たちが、一斉に得物を振り上げた。
ぱん、と。
乾いた音が、ひとつ、荷揚げ場に響いた。
手を打つ音だった。
振り上げられた得物が、残らず、宙で止まった。
「――そこまでにしましょう」
倉庫の二階の窓辺に、白い手袋をはめた男がひとり、頬杖をついてこちらを見下ろしていた。




