第21話お約束の三十秒でしたわ
世界が、見張りの男の目になった。
船首から見下ろす甲板。昇降口を取り囲む黒い服の輪。棍棒を握った腕。開け放たれた昇降口の、底の見えない暗がり。
そこに、白い背中はなかった。まだ、船倉の奥にいる。
甲板の上の悪い方々は、ひとり残らず視界の中にいた。
一秒あれば、足りる。
放った。
白。
借りた目が焼き切れて、わたくしの目に戻る。
潮風丸の甲板が、下から光に押し上げられるように膨らんだ。
爆音が、霧を内側から叩き割った。
ひとつではない。甲板の上の黒い服の数だけ、立て続けに。船べりが外側へめくれ上がり、帆柱が根元から折れて、ゆっくりと海の方へ倒れていく。甲板の板が、まるで紙のように千切れて、夜空へ舞い上がった。
遅れて、熱い風が埠頭まで届いた。わたくしは日傘を少し前へ傾けて、それをやり過ごした。
光の粒が、甲板だった場所から、いくつも霧の中へ昇っていく。
【コメント】撃った
【コメント】三十ちょうどで撃った
【コメント】スタロまだ中にいる!!
【コメント】待って待って待って
【コメント】船が
【コメント】折れてる
潮風丸は、真ん中から裂けていた。
甲板の大穴から、黒い煙が柱のように立ちのぼっている。穴の縁で、何かが燃えていた。裂け目から海水が流れ込む音が、ここまで聞こえる。船体が、少しずつ、岸壁の反対側へ傾きはじめていた。
甲板の悪い方々は、もういない。
お約束どおり、甲板の方々だけを狙った。船倉の中へは、何ひとつ向けていない。
けれど、甲板というのは、船倉の天井でもあったのだと、そのとき思い出した。
【コメント】スタロ!!
【コメント】船倉の真上が全部吹っ飛んでる
【コメント】中の二人は?
【コメント】沈むぞこれ
【コメント】嘘だろ
煙の柱の中に、光が灯った。
小さな、青白い四角。
光の足場だった。煙を内側から突き破るようにして、ひとつ、またひとつ。甲板の大穴の真上に、階段のように連なって灯っていく。
たん。
たん、たん。
煙の中から、白い人影が飛び出してきた。
両腕に、あの年配の船員を抱えている。帳面を胸に握りしめたまま、船員はスタロ様の肩に顔を埋めていた。スタロ様は光の足場を三つ、四つと踏みつけて、宙を駆けた。
燃える帆柱の上を越え、裂けた船べりを越え、埠頭の石畳へ。
着地の瞬間、膝をついた。
白いマントの裾から、細い煙が上がっていた。スーツの蛍光色の線が、ところどころ焦げて、明滅している。
【コメント】生きてた
【コメント】間に合ったああああ
【コメント】スタロおおお
【コメント】抱えてるおっさんも無事だ
【コメント】マント燃えてる
【コメント】ライト点滅してて痛々しい
【コメント】ギリギリすぎる
スタロ様は、年配の船員を石畳の上にそっと下ろした。
先に助け出されていた乗組員たちが、口々に何かを叫びながら駆け寄ってくる。年配の船員は、若い船員に肩を支えられて、ようやく顔を上げた。震える手で、帳面を開き、また閉じた。無事を確かめるように。
十二人。
ひとりも、欠けていない。
わたくしは、胸の前で小さく手を合わせた。
「お見事ですわ」
心の底から、そう思った。
お約束の三十秒で、スタロ様は十二人を助け出した。わたくしは、甲板の悪い方々を、ひとり残らず片付けた。どちらが欠けても、この結果にはならなかった。
ヒーローが二人、それぞれの役目を果たしたのだ。初めて顔を合わせたばかりの方と、ここまで息が合うとは思わなかった。
【コメント】いや、ギリギリだったんだって
【コメント】三十ちょうどで撃つのはおかしい
【コメント】約束は守ってる
【コメント】守ってるけど、そういう問題じゃない
【コメント】お嬢の中で今のが「連携」になってる
【コメント】スタロの後ろで船沈んでるんですけど
振り返ると、潮風丸は、もう半分ほど海に沈んでいた。
裂けた船首が、霧の中で斜めに持ち上がっている。白い字の「潮風丸」が、ゆっくりと波の下へ吸い込まれていった。
船は、少しばかり沈んでしまった。
けれど、乗組員の方々は、全員ご無事だ。悪い方々は、もういない。盗まれかけた荷も、小舟ごと吹き飛んだので、持ち去られることはない。
これ以上の結果は、なかったはずだ。
乗組員の方々は、スタロ様を取り囲んでいた。
若い船員が、焦げたマントの裾を両手で握って、何度も頭を下げている。別の船員は、スタロ様の肩を叩きながら、泣き笑いのような顔で何かを叫んでいた。帳面の年配の方は、若い船員の肩を借りて立ち上がると、スタロ様の前で深々と腰を折った。長いこと、顔を上げなかった。
それから、年配の方が、ゆっくりとこちらを見た。
目が合った。
わたくしは、日傘を傾けて会釈をした。
年配の方は、会釈を返さなかった。
わたくしと、沈んでいく潮風丸とを、交互に見比べた。唇が、何か言いかけるように動いた。
「……あんたが、うちの船を」
そこまで言って、年配の方は口を閉じた。
帳面を、胸の前で強く握りしめる。それから、ほかの乗組員たちに何ごとか低く囁いた。乗組員たちが、一斉にこちらを見た。そして、揃ってスタロ様の背中の後ろへ、半歩ずつ移っていった。
皆様、ずいぶん控えめな方々だ。
命の恩人の陰に隠れるように並んで、わたくしの方へはお礼を言いに来てくださらない。きっと、慣れない出来事の連続で、気持ちの整理がついていないのだろう。無理もない。
【コメント】おっちゃんの「うちの船を」で全部察した
【コメント】乗組員、全員スタロの後ろに避難してて草
【コメント】盾にされてるスタロ
【コメント】お嬢、完全に怖がられてる
【コメント】控えめな方々(恐怖)
視界の端の文字は、なかなか落ち着かなかった。
【コメント】古着屋の二階です 今回は被害者の会の出番はなさそうです
【コメント】乗組員全員無事なの、スタロのおかげだからな
【コメント】お嬢単独だったら船倉ごと沈んでた
【コメント】というか沈める気だった説
【コメント】三十秒くれただけマシという地獄
埠頭の上で、スタロ様がゆっくりと立ち上がった。
焦げたマントの裾を払いもせずに、こちらを向く。
白い兜の細い隙間が、まっすぐにわたくしを捉えていた。蛍光色の線が、明滅しながら、少しずつ光を取り戻していく。
スタロ様は、歩いてきた。
一歩ずつ。わたくしと同じ速さで。拳を、固く握りしめて。
わたくしは、日傘の縁を持ち上げて、微笑んだ。
「お約束の三十秒でしたわ、スタロ様」
スタロ様の足が、わたくしの目の前で止まった。
「……様は、いらないって言っただろ」
低い声だった。
さっきまでの、霧を震わせるような大声ではなかった。




