第20話三十秒だけ、お待ちいたしますわ
白い人影は、わたくしから三歩ほど離れた石畳に、音もなく降り立った。
最後の光の足場が、その踵の下で砕けて消える。
霧が、着地の風に押されて丸く退いた。
近くで見ると、思っていたよりずっと派手な方だった。
頭の先から爪先まで、白。その白地の上を、目に痛いほどの蛍光色の線が何本も走っている。肩から腰へ、腰から脛へ。まるで夜の街の看板をそのまま身にまとったようだった。胸の真ん中では、星の形をした光がひとつ、ひときわ明るく灯っている。頭はすっぽりと白い兜に覆われていて、顔はどこにも見えない。目のあたりに一本だけ切られた細い隙間が、青白く光っていた。
肩から垂れた短いマントが、遅れてふわりと落ちる。
【コメント】来たああああ
【コメント】スターライトロードだ
【コメント】本物だ
【コメント】近くで見るとマジで派手
【コメント】夜だと光りすぎて逆に見えにくい
【コメント】お嬢と並ぶと色の情報量がえぐい
白い兜が、まっすぐにわたくしの方を向いた。
「九条院瑠璃華だな!」
大きな声だった。
霧が震えるかと思うほど、まっすぐで、よく通る声。
「ええ。ごきげんよう。スターライトロード様、ですわね」
「様はいらない! スターライトロードでいい! 長かったらスタロでもいい、みんなそう呼んでる!」
【コメント】自分で略称言うんだ
【コメント】スタロ
【コメント】声でかい
【コメント】思ったより親しみやすい
わたくしは、日傘の縁を持ち上げて一礼した。
昨夜、背中越しに足音だけを聞いた方。動画で何度も見返した方。お招きしたわけでも、追いかけたわけでもないのに、こうして目の前にいらしてくださった。
やはり、事件のあるところにいれば、あちらから来てくださるのだ。
「お会いできて光栄ですわ。昨夜は、ご挨拶もできずに失礼いたしました」
「昨夜の広場!」
スターライトロード――スタロ様は、わたくしの言葉にかぶせるように言った。
「あれ、やったのは君だよな!」
「ええ。お茶会を開きましたの」
「お茶会!?」
白い兜が、ほんのわずかに傾いだ。
「……俺、あのあと朝まで瓦礫どけてたんだ。露台に取り残された人を一人ずつ下ろして、噴水の水を止めて。正直、めちゃくちゃきつかった!」
【コメント】正直すぎる
【コメント】愚痴を正面から言うヒーロー
【コメント】噂ほんとだったんだ
【コメント】お嬢の後始末係、本人が認めた
「まあ。それは、ご苦労さまでしたわ」
「ご苦労さまじゃなくて!」
スタロ様は、何か言い返そうとして、ぐっと言葉を呑み込んだ。
それから、潮風丸の方を振り返った。
「いや、今はそれどころじゃない! あの船、船倉に乗組員が閉じ込められてる。十二人だ。さっき屋根の上から見えた」
十二人。
わたくしも、昇降口に押し込まれていく人数を数えてはいなかった。上から見下ろしていた方の目なら、確かに数えられるだろう。
ふと、思った。
屋根の上から、埠頭全体を見下ろしてきた方の目。
わたくしは、ほとんど無意識に、スタロ様の目をお借りしようとした。
呼吸をひとつ。
――何も、起きなかった。
硝子に額をぶつけたような、固い手応えだけがあった。
借りようとした視界が、指先から滑り落ちるように遠のいていく。もう一度試しても、同じだった。白い兜の細い隙間の向こうは、どうやっても覗けなかった。
こんなことは、初めてだった。
「……お借りできませんのね」
「え? 何を?」
「いいえ。こちらの話ですわ」
【コメント】今なんか言った?
【コメント】お借りできない?
【コメント】何を借りようとしたんだ
【コメント】茶杯とか?
【コメント】今それどころじゃないだろ
スタロ様は、首を傾げながらも、すぐに潮風丸へ向き直った。
「頼みがある。俺が今から船倉の人たちを全員出す。それまで、君は何もしないで待っててくれ」
「待つ、ですの?」
「そうだ! 君、たぶんあの船ごと吹き飛ばすつもりだろ。昨夜の広場みたいに」
「甲板の悪い方々だけを片付けるつもりでしたわ」
「その『だけ』が信用できないんだよ!」
【コメント】言った
【コメント】初対面で言い切った
【コメント】スタロ、完全に正しい
【コメント】お嬢の「だけ」は信用できない、全視聴者が知ってる
わたくしは、少し考えた。
待つ。
お嬢様は、追いかけない。待つのは、得意なことだ。
それに、この方は、わたくしにお願いをしている。ヒーローが、ヒーローに。困っている方の頼みを聞くのは、お嬢様の務めでもある。
「どのくらい、お待ちすればよろしいのかしら」
「三十秒! 三十秒でいい!」
「承知いたしましたわ」
わたくしは、日傘を肩に預け直した。
「三十秒だけ、お待ちいたしますわ」
スタロ様の兜の隙間が、一瞬だけ、明るく光った気がした。
「ありがとう!」
次の瞬間には、もういなかった。
たん、と澄んだ音がひとつ。宙に光の足場が灯り、白い背中はもう潮風丸の船べりの上にあった。甲板の黒服たちが振り返るより先に、昇降口の前へ。蛍光色の線が、霧の中に残像を引いて走る。
かんぬきが、蹴りひとつで弾け飛んだ。
一。
わたくしは、数えはじめた。
【コメント】速い
【コメント】見えない
【コメント】かんぬき一撃
【コメント】お嬢、ほんとに数えてる
【コメント】律儀
五。
昇降口から、乗組員が次々と引き上げられていく。スタロ様は二人を両脇に抱えると、そのまま船べりを蹴って宙へ跳び、光の足場を三つ踏んで、埠頭の石畳へ降ろした。すぐにまた宙へ戻る。黒服の男たちが、ようやく棍棒を振り上げて群がりはじめた。
十一。
四人目、五人目。棍棒の一撃を、スタロ様は身をひねってかわし、振り向きざまに蹴りを入れる。黒服がひとり、船べりを越えて海へ落ちた。水音。その隙に、また二人を抱えて埠頭へ。
十八。
八人。
甲板の黒服たちが、昇降口の周りを固めはじめた。二十人あまりが、スタロ様ひとりを囲んで、じりじりと輪を縮めていく。
【コメント】囲まれた
【コメント】まだ四人残ってる
【コメント】お嬢、待って、お願い
【コメント】スタロ頑張れ
【コメント】三十秒は短すぎたって!
二十四。
スタロ様が、輪の真ん中から真上へ跳んだ。光の足場をひとつ踏んで、昇降口の真上へ。落ちる勢いのまま、船倉の中へ飛び込んでいく。
九人目、十人目、十一人目が、下から押し上げられるように甲板へ転がり出た。
二十八。
残るは、ひとり。
帳面を持っていた、あの年配の方。
スタロ様の白い背中が、もう一度、船倉の暗がりへ消えた。
二十九。
わたくしは、船首の見張りに目を向けた。
術式は、とうに組み終えている。
三十。




