第19話星明かりの道、ですって?
夜の港は、霧の匂いがした。
倉庫街の石畳は、昼間の荷の出入りでわだちがいくつも刻まれていて、そこに溜まった海水が、ガス灯の光を鈍く跳ね返している。見上げると、荷揚げ用の鉄の起重機が何本も、首の長い鳥のように霧の中へ伸びていた。
遠くで、船の汽笛が低く鳴った。
悪党出没マップの印は、ここに三つ。
置き引き、倉庫破り、それから、正体の分からない夜間の荷の横流し。
「ごきげんよう、皆様。九条院瑠璃華ですわ。今宵は、港の見回りに参りましたの」
同時視聴、八百十二。
配信を始めた瞬間から、この数字だった。
【コメント】来た
【コメント】今日は招待状なし?
【コメント】港か
【コメント】倉庫街って夜は本当に人いないぞ
【コメント】昨日の最後のアイツ見た?
【コメント】見た。スターライトロードだろ
【コメント】あの光る足場で空飛んでたやつ
スターライトロード。
視界の端に流れてきたその名前に、わたくしは足を止めた。
【コメント】プレイヤーのヒーロー勢で最近伸びてる人
【コメント】事件あったら秒で飛んでくる
【コメント】顔出してないよな。ずっとあの白いメット
【コメント】蛍光色の線がとにかく派手
【コメント】昨日の広場、あのあとずっと瓦礫どけてたらしいぞ
【コメント】朝まで?
【コメント】朝まで。露台に取り残された人も全員下ろしたって
【コメント】お嬢の後始末係じゃん
星明かりの道。
「……素敵なお名前ですこと」
思わず、口に出していた。
【コメント】お嬢が反応した
【コメント】気になってる?
【コメント】会いたいの?
【コメント】お嬢、昨日のラストで振り返らなかったよな
昨日の夜、背中越しに聞いた、あの澄んだ足音。
硝子を弾くような音が、屋根の上から一定の間隔で近づいてきて、広場の真ん中で止まった。
現実に戻ってから、何度も動画を見返した。空中に光の足場を作っては踏み、また作っては踏み、屋根から屋根へと跳んでいく白い人影。
「お会いしたくないと申せば、嘘になりますわね」
【コメント】素直
【コメント】乙女か
【コメント】じゃあ探しに行こうぜ
【コメント】ヒーローの溜まり場とか調べれば会えるんじゃね
「探しには参りませんわ」
わたくしは、日傘の柄を握り直した。
「お嬢様は、殿方を追いかけたりはいたしませんもの」
【コメント】出た
【コメント】初回から一貫してる
【コメント】じゃあどうすんの
「それに、探す必要もございませんの」
わたくしは、霧の奥の埠頭の方へ目をやった。
「あの方は、事件のあるところへ、どこへでも駆けつけていらっしゃる方なのでしょう? でしたら、わたくしは事件のあるところにいればよろしいのですわ。そうすれば、あちらからいらしてくださいますもの」
【コメント】理屈は通ってる
【コメント】通ってるけど嫌な予感しかしない
【コメント】事件のあるところにいる(事件を起こす)
【コメント】罠じゃん
【コメント】ヒーローホイホイ
倉庫と倉庫のあいだの細い路地を抜けて、埠頭へ出る。
霧が、少しだけ薄くなった。
大きな貨物船が一隻、岸壁に横付けされていた。
船腹の塗装が剥げかけた、古い船だ。船首に「潮風丸」と白い字が見える。甲板の上では、灯りの下で、乗組員らしき男たちが夜通しの荷下ろしをしていた。木箱を担いで渡し板を往復する者。起重機の鎖を操る者。甲板の端で、帳面に何かを書きつけている年配の男。
どこにでもある、港の夜の光景だった。
わたくしは、少し離れた係船柱の陰に立って、その様子を眺めた。
悪党出没マップの三つ目の印。夜間の荷の横流し。
ほどなくして、音がした。
かいが水をかく音。それも、一隻や二隻ではない。
霧の向こうから、小舟が何隻も、滑るように近づいてきた。
潮風丸の、岸壁とは反対の船腹へ。灯りを消した舟の上に、黒っぽい服の男たちがひしめいている。手に手に、鉤縄を持っていた。
鉤縄が、一斉に宙を舞った。
金属が船べりに食い込む音。縄を伝って、男たちが次々と甲板へ這い上がっていく。荷下ろしをしていた乗組員たちが気づいたときには、もう甲板の半分が黒い服で埋まっていた。
怒号。悲鳴。何かが倒れる音。
【コメント】うわ
【コメント】海賊?
【コメント】船ごと乗っ取る気だ
【コメント】乗組員が
【コメント】船倉に押し込まれてる
乗組員たちが、次々と船首寄りの昇降口へ追い立てられていく。
抵抗した若い船員がひとり、棍棒で殴られて膝をついた。帳面を持っていた年配の男が、その腕を引いて、一緒に昇降口の下へ消える。最後のひとりが押し込まれると、黒服の男たちが、昇降口の重い蓋を上から閉じた。かんぬきが、がちゃりと掛けられる。
甲板の上に残ったのは、黒服の男たちだけになった。
二十人と少し。木箱を開け、中身を確かめ、自分たちの小舟へと次々に下ろしていく。手際がいい。慣れているのだろう。
【コメント】乗組員全員、船倉に閉じ込められた
【コメント】これ船ごと吹っ飛ばしたらアウトだよな
【コメント】お嬢、船倉に人いるからな!?
【コメント】分かってるよな!?
【コメント】古着屋の二階です 祈ってます
わたくしは、潮風丸の甲板を見上げた。
悪い方々は、みな甲板の上にいる。
船倉には、乗組員の方々。
甲板と船倉のあいだには、厚い板が一枚あるだけだ。
甲板の悪い方々だけを、きれいに片付けるには。
術式を、組みはじめた。
ひとつ、ふたつ。甲板の上に散らばった黒い服の数を、借りた目で確かめてから放つつもりだった。船首で見張りをしている男がひとり、ちょうど甲板全体を見渡せる位置にいる。
あの方の目なら――
そのときだった。
たん。
硝子を指で弾いたような、澄んだ高い音。
霧の上から、聞こえた。
たん、たん、たん。
音が、近づいてくる。
倉庫街の屋根の方から、起重機の先端を越えて、埠頭の上空へ。霧の中に、ひとつ、またひとつと、小さな光の足場が灯っては消えていく。
わたくしは、術式を組む手を止めた。
白い人影が、霧を裂いて降ってきた。




