第18話またのお越しを、お待ちしておりますわ
茶杯の底に残った最後のひと口を飲み干して、わたくしは立ち上がった。
卓と椅子は、無事だった。
借りたものは、返さなくてはならない。女将は返さなくていいと言ってくださったけれど、それに甘えるのはお嬢様の振る舞いではない。わたくしは卓の脚に手をかけて、広場の角の茶屋の方を見た。
茶屋は、なかった。
一階の間口がそっくり吹き抜けて、奥の厨房の竈までが通りから丸見えになっている。暖簾は、どこかへ飛んでいったらしい。二階の露台が斜めに傾いで、その縁から、湯呑がひとつ、ころころと転がり落ちてきた。
【コメント】茶屋が
【コメント】返す先が消えてる
【コメント】三階です 知ってます。中にいたので
【コメント】三階の人、もう実況担当になってない?
わたくしは、少し考えてから、卓と椅子を茶屋の跡の前まで運んでいった。
竈の前に、そっと据える。茶杯だけは、小夜さんの店の品なので、持ち帰らせていただくことにした。
「お借りしたものは、こちらに置いておきますわね」
竈の陰から、誰かがこちらを覗いている気配がした。
女将だろうか。返事はなかった。
広場を振り返る。
溢れ出した噴水の水が、瓦礫のあいだを縫って、石畳の穴へ細く流れ込んでいた。傾いだ露台では、住人の方々が互いに手を貸し合って、一人ずつ下の階へ降りようとしている。広場の縁に残った見物の方々は、わたくしが視線を向けると、揃って一歩ずつ下がった。
招待状には、悪党の皆様へ、と書いた。
それでも、足を運んでくださった方々がいた。見物の方々も、露台の方々も、ご自分の意思で、今夜ここにいらしたのだ。
せっかくのお茶会に巻き込まれてしまったのは、お気の毒なことだった。けれど、悪党の方々は、ひとり残らずお帰りになった。この歓楽街は、明日から少しだけ静かになる。
上出来だった。
視界の隅の数字を確かめる。
同時視聴、二千三百四十一。
一回目は、三人だった。
【コメント】二千超えは普通にすごい
【コメント】初見です
【コメント】初見です、切り抜きから来ました、何が起きたんですか
【コメント】見れば分かる
【コメント】見ても分からない
【コメント】古着屋の二階です 被害者の会、本日付で会員を募集します
【コメント】どこで活動してんの
【コメント】港の外れの酒場です。今夜巻き込まれた方、どなたでも
【コメント】三階です お茶のご用意はございません
【コメント】そこはあってもいいだろ
わたくしは、日傘を開いた。
カメラに向き直り、ドレスの裾をつまんで、ゆっくりと一礼する。
「皆様、今宵はわたくしのお茶会にお越しいただき、誠にありがとうございました。とても素敵な夜になりましたわ」
顔を上げる。
傾いだ露台の向こうに、星が出ていた。
「またのお越しを、お待ちしておりますわ」
【コメント】お茶会(物理)
【コメント】二度と行かねえよ
【コメント】また行きます
【コメント】行くんかい
【コメント】次の招待状いつ出ますか
【コメント】待って、後ろ
【コメント】後ろ!
【コメント】屋根の上になんかいる
わたくしは、首を傾げた。
後ろ。
文字の流れが、急に慌ただしくなっていた。
【コメント】光ってる
【コメント】屋根の上走ってる奴いる
【コメント】いや走ってるっていうか、空中踏んでない?
【コメント】足元が光ってる
【コメント】速っ
【コメント】こっち来てる
振り向こうとして、やめた。
終わりのご挨拶をしたばかりなのに、ここで振り返っては締まりがない。幕が下りたあとに舞台の上をうろうろする役者ほど、見苦しいものはないのだから。
背後で、何かが鳴った。
硝子を指で弾いたような、澄んだ高い音。それが一定の間隔で、屋根の方からこちらへ、みるみる近づいてくる。たん、たん、たん、と。足音のように。
わたくしは、歩き出した。
一歩ずつ。いつもの歩き方で。広場の南の出口へ。
【コメント】お嬢気づいてない
【コメント】いや気づいてるけど無視してる
【コメント】どっちでも怖い
【コメント】降りてきた
【コメント】広場の真ん中に着地した
【コメント】誰あれ
【コメント】ヒーローっぽい格好してる
たん、と。
最後の澄んだ音が、広場の真ん中あたりで止まった。
しばらく、何も聞こえなかった。
噴水の残りの水が流れる音と、露台の方々の声と、わたくし自身の足音だけ。
それから、背後で、誰かが息を呑む気配がした。
ずいぶん遠くから、急いで駆けつけてきたらしい。荒い呼吸が、少しずつ落ち着いていく。広場の惨状を、ひとつひとつ見回しているのだろう。瓦礫を踏む足音が、あちこちへ動いていた。
わたくしは、南の出口をくぐった。
歓楽街の提灯の灯りが、また両側に連なりはじめる。
きっと、お茶会の噂を聞いて、遅れていらした方なのだろう。
あいにく、もうお開きだ。
次の招待状は、もう少し早めに出して差し上げよう。わたくしは日傘の柄を握り直して、そう心に決めた。
*
ヘッドギアを外すと、部屋の中はすっかり暗くなっていた。
昼に書き上げた原稿の控えが、机の上で白く浮かんで見える。私はしばらく天井を見上げて、それから、枕元のタブレットに手を伸ばした。
配信の終わりの方が、少しだけ気になっていた。
配信サイトを開くと、おすすめ欄の一番上に、見覚えのある背景の切り抜きが並んでいた。
私の配信の切り抜きだった。それも、一本や二本ではない。
――【悪辣非道】お嬢様、歓楽街で茶会を開いた結果
――広場ひとつ消した後の第一声が「ぬるい」
――被害者の会、ついに会員募集を開始
タイトルの頭に、あの四文字がついているものが多かった。
コメント欄と同じだ。みんな、悪党の人たちのことを、そう呼んでいるらしい。私は少し笑って、一番上の切り抜きの再生数を見た。桁を二回数え直した。
その少し下に、私のではない動画が一本、混じっていた。
――【速報】謎のヒーロー、爆心地に一番乗り
誰かが、広場の外から撮っていた映像らしい。
暗い屋根の連なりの上を、光る足跡を残しながら、ひとつの人影が駆けていく。いや、駆けているというより、空中に次々と足場を作って、それを踏み台に跳んでいる。屋根から屋根へ。屋根の切れ目では、何もないはずの宙を。
私が振り返らなかった、あの澄んだ音の正体だった。
人影は、崩れた広場の真ん中に着地して、しばらく動かなかった。
顔までは分からなかった。頭をすっぽりと覆う白い兜の、目のあたりだけが細く光っている。白地のスーツには蛍光色の線が何本も走っていて、暗い広場の真ん中で、そこだけが看板のように派手に浮かび上がっていた。肩から垂れた短いマントの裾が、夜風に揺れていた。
映像は、そこで終わっていた。
私は、もう一度再生した。
空中を踏んで跳ぶ人影。光る足跡。着地。動かない背中。
ヒーローだ、と思った。
衣装とか、見た目とか、そういうことではなくて。あの人は、何かが起きた場所へ、一番に駆けつけようとしていた。
私とは、反対のやり方だ。
私は追いかけない。あの人は、どこへでも駆けつける。
タブレットを胸の上に伏せて、目を閉じる。
なぜだろう。会ってみたい、と思った。




