第168話閑話 宛名の人
☆ スターライトロード視点 ☆
胸の内側で、紙が、かさりと鳴った。
装甲の継ぎ目に差し込んだまま、もう何日も持ち歩いている封書だ。角の丸くなった古い紙。宛名がひとつだけ。所は、どこにも書いていない。
上の桟橋で、白髪の運転士のおっさんから預かった。昔、世話になった人だと言っていた。何年も前に、下町のどこかに引っ込んだきりだと。
東の長屋の差配のばあちゃんが、昔の帳面を出してくれると言ったのは、その晩だった。
*
ばあちゃんの部屋は、長屋のいちばん奥にあった。
畳の上に、帳面が積んであった。十冊。二十冊。いちばん下のは、表紙が布で継いであった。
「四十年、ここの差配をやってるからね。誰が越してきて、誰が出てって、誰に子が生まれて、誰が死んだか。ぜんぶ、ここに書いてある」
ばあちゃんは、いちばん下の一冊を、膝の上で開いた。
細かい字が、頁いっぱいに並んでいた。ところどころの名前に、墨で、横に一本、線が引いてあった。
「線のは」
「死んだ人さ」
ばあちゃんは、何でもないことのように言って、頁をめくった。
線は、めくるたびに増えていった。
俺は、何も言えなかった。
俺たちは、死んでも、拠点で目を覚ます。ここの人たちも、俺たちのせいで死んだときは、次の日に戻ってくる。それを、俺は知っていた。知っていたから、この線の意味を、考えたことがなかった。
戻ってこなかった人の、線だった。
ばあちゃんの指が、ある頁で止まった。
「ほれ。あった」
封書の宛名と、同じ名前だった。その横に、ばあちゃんの字で、短く書き添えてあった。
――北の浜の先へ越す。門のある屋敷。
「線は、引いてないだろう」
ばあちゃんは、指で、その名前の横の、何も書いていないところを、とんと叩いた。
「だったら、生きてるよ。少なくとも、わたしが知ってるかぎりはね」
ばあちゃんは、帳面を閉じずに、膝の上で撫でた。
「名前だけじゃ、下町の誰に聞いても分からなかったろう。その名前で呼んでるのは、もう、この帳面くらいだからね」
*
そのとき、窓の外が、光った。
西の空だった。運河の向こう。屋根の並びの上が、いっぺんに白く灯った。少し遅れて、どん、と、畳の下から音が来た。帳面の山が、かすかに揺れた。
俺は、腰を浮かせていた。
「……行かなくていいのかい」
ばあちゃんが、帳面を膝に置いたまま言った。
あいつは、今夜、運河沿いで三十を数えていたはずだ。指をさす人のいない晩だ。数えなくていい、と言ったのは、俺だった。
どうぞ、東へ、と言ったのは、あいつだった。
俺は、腰を下ろした。
「……今から行っても、間に合わない」
それは、本当だった。
本当だから、余計に、膝の上の拳が、ほどけなかった。
ばあちゃんは、何も言わなかった。帳面の、さっきの頁に、栞の紐を挟んだ。
*
次の日から、話が、勝手に集まってきた。
俺が頼んだわけじゃない。瓦版屋の孫が、戸口を一軒ずつ回って、「スタロの兄ちゃんが、北の浜の先の、門のある屋敷の人を探してる」と言って歩いた。それだけだった。
そのうち、下町じゅうに、「旅の方、お断り」の紙が貼られはじめた。それでも、俺の前で戸を閉める家は、一軒もなかった。
石段のふもとの荷車引きの爺さんは、荷車を引いたまま、わざわざ坂を上ってきた。
「門のある屋敷なら、北の浜の、さらに先の岬だ。昔、荷を運んだことがある。……門から中には、入れてもらえなかったがね」
焼き芋の屋台の爺さんは、芋を一本、俺の手に押しつけた。
「毎週、決まった日に、北の浜の方から、背の高い年寄りが坂を上ってくるよ。いつも、同じ道を帰ってく」
湯屋の番台のおかみさんは、帳面をめくった。湯屋にも、帳面があった。
「背の高い年寄り? ああ、石鹸の人だね。毎週、四つ目の鐘ごろに、石鹸を一つ。言葉づかいの、やけに丁寧な人だよ」
おかみさんの番台の脇にも、「旅の方、お断り」の紙が貼ってあった。
「……俺も、旅の方だけど」
「兄ちゃんは、旅の人じゃないよ」
おかみさんは、帳面の端を、指で押さえた。
「三日後が、その日だ」
*
三日後、俺は、湯屋の向かいの家の陰に立っていた。
焼き芋の爺さんも、瓦版屋の孫も、荷車引きの爺さんも、ついてきていた。帰れと言っても、帰らなかった。ばあちゃんまで、杖をついて来ていた。
「なんで、みんな」
「北の長屋の壁の字を、兄ちゃんは消してくれた」
ばあちゃんが、当たり前のことのように言った。
「芋の屋台を、二回、起こしてもらった」
「荷車を、坂の上まで押してもらった」
「……おれは、なんにもしてもらってないけど、おもしろそうだから」
孫の声に、爺さんたちが笑った。
胸の内側で、紙が、また、かさりと鳴った。
締め出すのも、締め出さないのも、ここの人たちが、自分で決めていた。
四つ目の鐘が鳴った。
坂の下から、背の高い人影が、ゆっくりと上ってきた。
年寄りだった。白い髪をきちんと撫でつけて、黒い上着の背筋が、鉄の棒でも入っているみたいに、まっすぐ伸びていた。腕に、籐の籠を提げている。足音ひとつ立てずに歩いてくる。
湯屋の戸口で、おかみさんと、短い言葉を交わした。石鹸が、籠に収まった。
年寄りは、湯屋を出ると、まっすぐ、坂を下りはじめた。北の浜の方へ。
俺は、陰から、飛び出していた。
「待ってくれ。手紙を――」
年寄りは、振り返らなかった。
足を速めもしなかった。来たときと同じ歩幅のまま、籐の籠を揺らしもせずに、坂を下りていった。
追いつくのは、簡単だった。光の足場をひとつ蹴れば、肩に手が届く。
届かせる気に、なれなかった。振り返らない背中を、後ろから掴んで止めるのは、違う気がした。
「……追うの?」
孫が、小声で聞いた。
俺は、伸ばしかけた手を、下ろした。
「追わない。来週、また来る。今日は、道だけ覚える」
黒い上着の背中が、北の浜へ下りる道の、二つ目の角を、左へ曲がった。俺は、それだけを、目に焼きつけた。
ばあちゃんが、俺の装甲の腕を、杖の先で軽くつついた。
「帳面に、書いとくよ。今日、兄ちゃんが、手紙の人を見つけた、って」
「……見つけただけだ。渡してない」
「見つけたことも、書いとくのさ。書いとかないと、なかったことになるからね」
ばあちゃんは、杖をついて、来た道を戻りはじめた。
その背中を見ながら、俺は、あの晩の帳面の頁を思い出していた。墨で一本引かれた、たくさんの線を。
俺のぶんの線は、どこにも引かれない。
ここの人たちのぶんは、引かれる。
兜の中で、俺は、しばらく、立っていた。




