第167話きりが、ございませんわね
「ごきげんよう、皆様。本日も、見回りに参りますわ」
空き店の扉の上で、小さなわたくしが、朝の風に揺れていた。
【コメント】こんにちは
【コメント】人形、ちゃんと吊るされたまま
【コメント】お留守番中
【コメント】昨日、何回三十秒数えた?
【コメント】六回
坂を下りて、最初の角で、また札売りの方に会った。
昨日とは別の方だった。売っている札は、同じだった。
わたくしは、日傘を傾けた。
札売りの方は、紙の束を抱えて、坂の上の方へ駆けていった。十も数えないうちに、見えなくなった。
次の角では、また板が剝がされていた。その次の角では、昨日と同じ路地に、昨日と別の方が、縄を張っていた。
そのたびに、三十を数えた。数え終えるころには、どの角にも、どなたもいらっしゃらなかった。
【コメント】昨日と同じ
【コメント】顔ぶれだけ入れ替わってる
【コメント】倒しても翌日戻るし、戻らなくても次が来る
【コメント】今日、何回目だっけ
【コメント】数えるのやめた
【コメント】湧き場所あるだろ、これ
四つ目の角で、わたくしは、日傘を下ろした。
白い石畳の上に、荷車の轍が、何本も残っていた。札売りの方も、板を積んだ荷車も、通り賃の縄を巻いた方も、逃げるときは、みんな、同じ方角へ向かっていた。
坂の上だった。わたくしが、今朝、下りてきた方だった。
「……きりが、ございませんわね」
【コメント】出た
【コメント】きりがない
【コメント】面倒になってきた顔だ
【コメント】嫌な予感しかしない
「一軒ずつお伺いするのは、お行儀がよろしいのですけれど」
わたくしは、轍の先を、日傘の先で指した。
「皆様が、同じところへお集まりになるのでしたら。そちらへ、まとめてお伺いした方が、ずっと手間がかかりませんもの」
*
轍をたどって、坂を上り直した。
白い坂は、空き店の三歩手前で終わる。そこから先だけが、古い石畳だった。
白の切れ目に立つと、三歩先に、空き店の古い扉がある。その向かいに、二階建ての古い家。店の脇の細い道を抜けた先に、小さな辻が開けていて、瓦の欠けた長屋が四、五軒、その辻を囲んでいた。
辻に、市が立っていた。
毎晩、空き店の前に立って、坂の下ばかり見下ろしていた。背中の側の辻のことは、見ていなかった。
締め出された方々の市だった。古い長屋の軒先を勝手に借りて、木箱を並べて、品を広げている。白くならない札の束。剝がした硝子の板。どこから持ってきたのか分からない鍋や、布団や、薬の小瓶。
品を買いに来ているのも、プレイヤーの方々だった。住人の方の姿は、ほとんどなかった。向かいの家の二階の窓だけ、布の陰から、娘さんがひとり、辻を見下ろしていた。
【コメント】ここに集まってたのか
【コメント】締め出された奴らの闇市
【コメント】下町の市に入れないから、自分らで市作った
【コメント】品揃え、全部盗品か詐欺
【コメント】空き店の裏じゃん
【コメント】住んでる人、困ってるだろ
辻のいちばん奥で、木箱の上に立った方が、声を張っていた。
「白い板、一枚、銀貨三枚! 上で買えば五枚だ! 札は今日だけ、二枚で銀貨一枚!」
三歩後ろで、ゲイリー様が、辻の人の頭の上を、端から端まで眺めた。
「札つきが四つ。……先に済ませる」
「どうぞ。わたくしは、ここで、三十秒お待ちいたしますわ」
毛皮は、もう店の脇の道を抜けて、辻の中にいた。
わたくしは、白の切れ目に立ったまま、日傘を傾けた。
*
十。
辻の真ん中で、ひとり目が、木箱ごとひっくり返った。硝子の板が、景気のいい音を立てて割れた。
辻じゅうの方々が、いっせいに振り返った。店の脇の道の先に、わたくしの日傘を見つけて、何人かが、品を放り出して走り出した。何人かは、品を抱えたまま、長屋の戸口に飛び込んだ。
【コメント】ゲイリー、一人目
【コメント】逃げる奴と、隠れる奴
【コメント】古い長屋に逃げ込んだぞ
【コメント】それ、一番だめなやつ
二十。
ゲイリー様が、四人目の襟首を掴んで、店の脇の道から引きずり出してきた。
「……済んだ」
二十五。
向かいの家の二階の窓で、娘さんが、布を握りしめていた。辻と、空き店の扉と、白い坂とを、息を詰めて見下ろしていた。
柔らかい目だった。
【コメント】二十八
【コメント】辻の人ら、まだ戸口にいる
【コメント】二十九
――辻の木箱。札の束。戸口の陰の、品を抱えた背中。瓦の欠けた屋根の並び。
三十。
白。
【コメント】あ
【コメント】辻ごと
【コメント】長屋ごと
【コメント】向かいの家も
【コメント】住んでた人、いただろ
【コメント】戸口に逃げ込んだ奴らごとか
光が引いた。
辻は、白かった。
瓦の欠けた屋根も、すきまの空いた板壁も、軒を勝手に借りていた木箱も、なかった。継ぎ目のない白い壁と、縦に並んだ硝子の窓が、辻をぐるりと囲んでいた。向かいの家も、その両隣も、同じ白だった。
光の粒が、いくつも、昼の空へ昇っていった。
わたくしの三歩先で、古い板の壁と、すり減った敷居と、木目の扉が、一軒だけ、残っていた。
扉の上で、小さな日傘の人形が、揺れていた。
【コメント】……
【コメント】空き店
【コメント】残ってる
【コメント】空き店だけ
【コメント】……店だけ、残した?
【コメント】たまたまだろ
【コメント】たまたまで、あんなきれいに外れるか
【コメント】いつもは、ど真ん中から全部だろ
【コメント】知らん。でも、残ってる
わたくしは、日傘を、まっすぐに戻した。
三歩、歩いた。扉の前の、水を撒く石の脇に立つと、足もとで、古い石畳が、店の幅だけ残っていた。その外側は、四方とも白かった。
扉の上の人形の日傘が、少しだけ傾いていた。わたくしは、指先で、それを直した。
「お留守番、ご苦労さまでございますわ」
【コメント】人形に話しかけた
【コメント】お留守番、続行
【コメント】理由、言わないんだな
【コメント】言わないのが一番こわい
【コメント】いや、今回は、こわいっていうか
三歩後ろで、ゲイリー様が、白い辻を見回していた。
それから、空き店の古い扉を、しばらく見ていた。何も言わなかった。
*
次の朝、坂の上へ上ると、辻の白い長屋の戸口から、住人の方々が出てくるところだった。
昨日、長屋の中にいらした方々も、その場で戻っていた。戻って、自分の家を、見上げていた。
白い軒先には、小さな日傘の人形が、昨日と同じ数だけ、吊るしてあった。
家と一緒に、人形も、戻っていた。
白い軒の並びの中で、古い扉の人形だけが、昨日からずっと同じ場所で、揺れていた。
辻に、市は、もう立っていなかった。白い石畳に残った荷車の轍は、どれも、坂の下の方へ、港の方へ、まっすぐに延びていた。




