第163話うつるもの、でございますの?
朝の工業区には、金槌の音がしなかった。
錆びた鉄の橋を渡ると、運河の向こうは、どこまでも白かった。継ぎ目のない壁。縦に並んだ硝子の窓。昨日まで煙突が立っていたあたりの空が、ぽっかりと広かった。
【コメント】おはよう
【コメント】一晩たっても白い
【コメント】煙が一本も上がってない
【コメント】工業区って、こんなに空が広かったのか
白い戸口の前に、職人の方々が集まっていた。
昨日まで、いちばん大きな工場だったところだ。代わる代わる、戸口の中を覗き込んでは、黙って首を振っていた。
「……炉が、ねえ」
誰かが、ぽつりと言った。
「炉も、金床も、ふいごも、ねえ。真っ白な部屋だ。……今日から、何を打ちゃいいんだ」
【コメント】炉がない
【コメント】工場が、ただの白い箱
【コメント】家なら住めばいいけど、工場は仕事場だもんな
【コメント】何を打てば、は重い
職人頭の方が、白い壁の前に立っていた。
金槌を、振り上げた。白い壁を、こつん、と叩いた。
それから、もう一度。もう少し強く。
音が、しなかった。
金槌の頭が、白い壁の上で、ただ止まった。
「……鳴らん」
職人頭の方は、金槌を下ろした。
「この壁は、わしが積んだ。積んだときは、叩けば鳴った。……鳴り方で、どこが弱っとるか、分かったもんだ」
【コメント】……
【コメント】鳴らない壁
【コメント】自分で積んだ壁だもんな
【コメント】職人だから分かるんだな、違いが
職人頭の方が、こちらを振り返った。
わたくしの日傘を見て、それから、わたくしの顔を見た。
「……うつるんだ。あんたと一緒に」
わたくしは、首を傾げた。
それから、岸の縁まで歩いて、運河を覗き込んだ。
黒い水に、白い壁と、日傘を差したわたくしが、並んで映っていた。
「まあ。本当に、よくうつりますのね。この運河」
「そっちじゃねえ」
「では、どちらの、うつるもの、でございますの?」
職人頭の方は、口を開けて、閉じた。
それきり、背を向けた。
【コメント】www
【コメント】映る、じゃない
【コメント】病気みたいに言われてるのに、鏡の話で返した
【コメント】わざとだろ、これは
【コメント】職人頭、言い返す気力が尽きた
*
橋のたもとで、荷車の荷をほどいている方がいらした。
紺の上着の袖を、肘までまくっていた。古い金床が二つ。ふいごが一つ。錆びた火ばさみが、何本も。どれも、下町の、白くならずに残った鍛冶場から借りてきたものらしい。
鈴村さんだった。
職人の方々の何人かが、金床の前に集まってきた。職人頭の方は、来なかった。少し離れたところから、腕を組んで、荷車を見ていた。
「炉が戻るまでは、下町の道具で、ご辛抱を」
【コメント】串屋の旦那、ここでも動いてる
【コメント】この前、頭下げて断られた相手に、道具持ってきてる
【コメント】寝てないだろ、絶対
【コメント】代表、ほんとに大変だな
鈴村さんは、金床を一つ下ろし終えると、手の甲で額を拭った。
それから、わたくしに気づいて、いつものように、穏やかに頭を下げた。
「おはようございます、九条院様。昨夜は、ちょうど鐘の刻でございましたね」
鈴村さんは、ふいごの口を、荷車の縁にそっと立てかけた。
「……お茶会の主には、お会いになれましたか」
「いいえ。お見えになりませんでしたわ」
わたくしは、日傘を、少しだけ傾けた。
「お忙しい方なのでしょうね」
「……さようでございますか」
鈴村さんは、もう一度、頭を下げて、火ばさみの束を抱え上げた。
【コメント】お茶会の主、来なかったもんな
【コメント】呼び出すだけ呼び出して
【コメント】罠の主を「お忙しい方」で片付けた
【コメント】旦那も心配してくれてるのか
【コメント】心配っていうか、代表の仕事だろ
*
三歩後ろで、ゲイリー様が、指を折っていた。
「……昨夜、札が五つ。倉庫の連中で三つ、布の連中で二つ」
「まあ。お疲れさまでございました」
「布の連中は、安い。……撃ってねえ奴の札は、安い」
ゲイリー様は、それきり、何も言わなかった。
【コメント】ゲイリー、なんか引っかかってる顔
【コメント】撃ってねえ奴の札は安い
【コメント】賞金首の判定、やっぱりおかしいよな
【コメント】運営「仕様です」
*
橋を渡って、下町へ戻った。
坂の下手の、白い壁の長屋の前を通ったときだった。
戸口の前で、おかみさんが二人、声を潜めて話していた。わたくしに気づくと、ふっと口を閉じた。
ひとりのおかみさんの手に、小さな日傘の人形が、ひとつ、握られていた。
軒先の鉤には、もう、ひとつ吊るしてあった。
わたくしが通り過ぎると、背中で、また声が始まった。
「……工業区まで、うつったって」
「次は、こっちだよ。まだ古いとこが、残ってるもの」
【コメント】下町まで噂が来てる
【コメント】次はこっち、か
【コメント】人形、二つ目吊るそうとしてる
【コメント】一個じゃ足りないと思ったんだな
【コメント】効くと思ってるんだよな、あれ
坂のいちばん上の、空き店の扉は、昨日の朝と同じだった。
札が一枚。その下の、木目の奥に、一画目の薄い跡。
坂の下から、また誰かが、軒先に人形を吊るす音がした。小さな鉤が、かちり、と鳴った。




