第162話五つ目の鐘でございますわ
夜の運河は、昼よりも黒かった。
錆びた鉄の橋の欄干には、もう人が並んでいた。昼間の職人の方々が、腕を組んで。その隣に、見物のプレイヤーの方々が、紙袋の焼き菓子をつまみながら。真ん中に、金槌を提げた職人頭の方がいらした。
【コメント】こんばんは
【コメント】橋の上、満員
【コメント】橋の上です。今回は降りません
【コメント】同じく。欄干から一歩も動かない
【コメント】職人さんたちも見に来てる
【コメント】スタロは東。今夜は指さす人がいない
橋の上から見下ろすと、倉庫の並びの、いちばん奥の門の脇で、角灯がひとつ揺れていた。夜番のお爺さんが、腰かけに座っていた。
お茶の支度は、どこにもなかった。
お招きくださった方のお姿も、どこにもなかった。
「……お茶会の主が、まだ、お見えになりませんわね」
「来る気がねえんだろ。最初から」
三歩後ろで、ゲイリー様が、欄干に肘をついた。
「来るのは、別の客だ」
倉庫の並びの、真ん中あたり。扉が一枚、内側から、そっと開いた。
人影が、ひとつ、ふたつと出てくる。十五人ほど。肩に、木箱や、銅の巻線の束を担いでいる。運河の岸に、平たい荷舟が一隻、つないであった。人影は、そこへ荷を積みはじめた。
頭の上に赤い札を浮かべた方が、何人か混じっていた。
【コメント】出た
【コメント】十五人
【コメント】札つき、七人くらい
【コメント】残りは札なし。NPCも混じってるな、あれ
【コメント】お嬢が橋の上にいるの、見えてないのか?
【コメント】いや、見えてて出てきてる。時間通りに
ゲイリー様が、欄干から肘を離した。
「札つきは、俺の客だ」
「ゲイリー様のお客様が、お先ですもの。……ですが、いつも通りの三十秒だけですわよ」
毛皮は、もう、橋の石段を駆け下りていた。
*
わたくしは、日傘を傾けた。
十。
岸の荷舟の脇で、ひとり目が、運河に叩き込まれた。水しぶきが、角灯の光を砕いた。荷を担いでいた方々が、いっせいに振り返った。
「熊だ! 熊の賞金稼ぎだ!」
【コメント】熊って呼ばれてる
【コメント】ゲイリー、工業区でも有名
【コメント】ふたり目
十五。
札つきの方々が、ばらばらに散った。倉庫の陰へ。荷舟の上へ。札のない方々は、荷を放り出して、扉の中へ駆け戻っていった。扉が、内側から、がたんと閉まった。
ゲイリー様が、三人目の襟首を掴んだまま、閉まった扉を振り返った。
「……閉じこもりやがった」
【コメント】籠城
【コメント】札なしは、ゲイリーの客じゃない
【コメント】ってことは
【コメント】二十
ゲイリー様は、札つきを引きずったまま、岸の石段を、橋の下まで駆け戻ってきた。
いちばん奥の門の脇で、夜番のお爺さんが、腰かけから立ち上がった。
角灯を、門柱の上の、煤けた鉤へ、持ち上げていく。
港の方から、鐘が渡ってきた。
五つ目。
お爺さんは、角灯を鉤に掛けて、閉まった扉の並びを見下ろした。三十年、毎晩そうしてきた方の、まっすぐな目だった。
柔らかい目だった。
――角灯に照らされた、閉まった扉。扉の上の軒先で、小さな日傘が、ひとつ、ちかりと光った。
三十。
白。
倉庫の並びが、消えた。
閉じこもった方々のいた倉庫も、その両隣も、そのまた隣も。黒ずんだ赤煉瓦が、運河沿いに、ひとかたまりの光の中へ呑まれていった。
――それだけでは、なかった。
倉庫の並びの、ずっと向こう。赤煉瓦の工場の屋根の上が、光った。煙突の根もとが。職人の方々の長屋の並びが。
ひとつではなかった。工業区じゅうが、いっぺんに、内側から灯ったように光った。橋の欄干に並んだ人々の影が、わたくしたちの足もとに、何重にも落ちた。
音は、少し遅れて、運河の底から、どん、と一度だけ来た。橋が、足の下で震えた。
【コメント】は
【コメント】え
【コメント】工場まで
【コメント】工業区じゅう光った
【コメント】倉庫しか撃ってないだろ!?
【コメント】橋の上です。見てた。お嬢が撃ったのと、全部いっぺんだった
【コメント】鐘、鳴ってたよな今
【コメント】鐘と同時だった
光が引いた。
運河の向こうに、赤煉瓦は、ひとつも残っていなかった。
継ぎ目のない、白い壁だった。倉庫の並びがあったところにも、工場があったところにも、長屋の並びがあったところにも。縦に並んだ硝子の窓の奥で、青白い光が、ひとつ、またひとつと灯っていった。煙突は、一本もなかった。
白い壁のあいだから、光の粒が、いくつも、黒い水の上へ昇っていった。
いちばん奥の門の跡の、白い壁の前で、夜番のお爺さんが、角灯を抱えたまま、へたり込んでいた。
【コメント】……
【コメント】工業区、全部白い
【コメント】煙突がない
【コメント】一発で、区画まるごと
【コメント】下町の坂のときより、ずっと広い
【コメント】お嬢、何した
【コメント】いつも通り撃っただけ、に見えたぞ
橋の上は、しんとしていた。
職人頭の方が、欄干を握りしめていた。金槌が、足もとに落ちていた。
「……うつった」
低い声だった。
「言った通りだ。白いのが、うつった」
職人の方々は、誰も、何も言わなかった。白い壁を、見ていた。自分たちの工場があったところを、ひとりずつ、確かめるように。
*
橋のたもとから、悲鳴が上がった。
若い方がひとり、白い石畳に、膝をついていた。腕に、金色のサイコロの布。昨日、倉庫の軒に人形を掛けていた方だった。
その頭の上に、赤い札が、浮いていた。
「なんで……なんで、俺に……撃ってない、俺は、何も……」
若い方は、自分の頭の上を、両手で払うようにした。札は、消えなかった。
橋の向こうの白い路地でも、同じような声が、いくつか上がっていた。
【コメント】は?
【コメント】サイコロの布の奴に札
【コメント】撃ったのお嬢だろ
【コメント】判定ミス?
【コメント】人形配ってた連中ばっかりじゃないか、あれ
【コメント】運営、仕事しろ
三歩後ろに、いつの間にか、毛皮が戻っていた。引きずっていた札つきは、もう、いなかった。
「……札がついたな」
ゲイリー様は、橋の石段を駆け下りていった。若い方が、悲鳴を上げて、白い路地の奥へ逃げ込んだ。
【コメント】ゲイリー、迷わず行った
【コメント】札がついたら客
【コメント】今夜、ゲイリーにとっては祭り
わたくしは、日傘を、まっすぐに戻した。
港の方では、五つ目の鐘の余韻が、まだ、薄く残っていた。
お茶会の主は、とうとう、お見えにならなかった。




