第157話配信を、お切りいたしますわ
三日後の朝は、よく晴れていた。
日向雑貨店には、もう何も残っていなかった。縄も、糸も、値札の板も。壁に、棚の形だけが、日焼けの跡になって残っている。
帳場の上に、小さな旅の鞄がひとつ、置いてあった。
【コメント】おはよう
【コメント】今日か
【コメント】店、空っぽ
【コメント】棚の跡だけ残ってる
【コメント】鞄、小さいな
小夜さんは、帳場の内側に立っていた。いつもの前掛けは、していなかった。襟の詰まった、旅の上着を着ていた。
「おはよ。……ちょっと待ってて」
帳場の下から、湯を沸かす小さな炉と、白い磁器の茶杯が二つ出てきた。それから、見覚えのある缶がひとつ。
「これ、瑠璃華が買ったお茶。……お客さんの品だけど、淹れていい?」
「どうぞ。わたくしのお茶ですもの。わたくしのお友達が淹れて、何の不都合がございまして?」
湯の沸く音だけが、空の店に響いた。
小夜さんは、茶葉に湯を注いで、待った。わたくしがいつもやるのと、同じ手順だった。
【コメント】最後のお茶会
【コメント】今日は小夜ちゃんが淹れてる
【コメント】お嬢が最後に買ったやつか
【コメント】泣く
帳場を挟んで、二人で、立ったまま飲んだ。
少し、渋かった。小夜さんも一口飲んで、顔をしかめた。
「……蒸らしすぎた」
「ええ、ほんの少し」
「瑠璃華は、いつも、もっと上手だよね」
「練習いたしましたもの。小夜さんも、向こうで練習なさいまし」
小夜さんは笑って、茶杯を置いた。
置いた手を、帳場の上で、きゅっと握った。
「瑠璃華」
「はい」
「……配信、切って」
【コメント】え
【コメント】切るの
【コメント】ここで?
【コメント】いや、いい。切ってやれ
【コメント】泣くとこ見せたくないんだろ
わたくしは、小夜さんの顔を見た。それから、視界の端の文字の流れに目を向けた。
「皆様。少しだけ、お休みをいただきますわ。すぐに戻ってまいりますから」
配信を、切った。
*
文字の流れが消えると、店の中は、思っていたよりずっと静かだった。
小夜さんは、上着の襟もとをくつろげて、指を入れた。細い鎖が引き出されて、その先で、小さな飾りが朝の光を受けて揺れた。
留め金を外す。帳場を回って、わたくしの前に来る。わたくしの手を取って、手のひらを上に向けさせて、その上に、首飾りを置いた。
鎖は、小夜さんの体温で、まだ温かかった。
「おばあちゃんの」
「……存じておりますわ」
「行きたかった場所に、わたしが行くから。この子を、わたしが守ってなくても、いいの」
小夜さんは、首飾りの上から、わたくしの手を、両手で包んだ。
「わたしだと思って、大切にしてね」
声が、最後のところで、揺れた。
ひとつ、落ちた。追いかけるように、もうひとつ。小夜さんは、わたくしの手を包んだまま、顔を伏せた。
何か、申し上げなければ、と思った。
言葉が、ひとつも出てこなかった。手のひらの中で、わたくしの指が、勝手に鎖を握り込んでいた。
空いている方の手で、ドレスの隠しから手巾を取り出して、小夜さんの頬に当てた。それが、精いっぱいだった。
「……あとね」
小夜さんが、手巾の下で鼻をすすった。
「わたしが見てると思って。……めちゃくちゃなこと、ちょっとは、控えてね」
「……ちょっとは、控えますわ」
「ちょっと?」
「ちょっと、ですわ」
小夜さんが、泣きながら吹き出した。
手巾で目を押さえたまま、肩を揺らして笑う。笑い終わると、ごしごしと、自分で顔を拭いた。
「……よし」
顔を上げたときには、もう泣いていなかった。目のふちが赤いだけだった。
「これ、返すね」
「差し上げますわ。船の上で、また要るかもしれませんもの」
「要らないよ、もう」
「でしたら、振る物にでもお使いなさいまし」
小夜さんは、手巾を、旅の鞄の口に押し込んだ。
*
わたくしは、ドレスの隠しから、貝殻を張った小さな箱を取り出した。
蓋を開けると、指輪がひとつ、収まっている。上で頂いた、普段使いにはしない贈り物。その隣に、首飾りを、そっと置いた。
「……つけないの?」
「大切なものは、しまっておくものですわ」
蓋を閉じて、小箱を隠しに戻す。その上から、手のひらを一度だけ当てた。
小夜さんは、それを見て、うん、と頷いた。
「それなら、なくさないね」
小夜さんは、旅の鞄を手に取った。
「帳面の最後の頁は、内緒のまま、行くね」
「ええ。お聞きいたしませんわ」
扉の前で、小夜さんは立ち止まった。
木目の奥の、一画目の、薄い黒い跡。その上を、人差し指で、上から下へ、一度だけなぞる。
それから、誰もいない棚の方を振り返って、小さく何か言った。
わたくしには、聞き取れなかった。
扉を押すと、頭の上で、小さな鈴が鳴った。
小夜さんの背中が、坂の明るさの中へ出ていった。扉が、ゆっくりと戻って、閉じた。
窓の硝子の向こうで、旅の鞄を提げた背中が、坂を何歩か下りて、空を見上げていた。
空の店に、わたくしは一人だった。
隠しから小箱を出して、蓋を開けた。首飾りをつまみ上げて、窓の光にかざした。
小さな飾りが、ひとつ、瞬いた。
小箱の中の指輪と、同じ光り方をしていた。
「……やっぱり」
指輪をいったん持ち上げて、その下に、首飾りを寝かせた。指輪を、上に戻した。
蓋を閉じる前に、鎖の端を、指先で一度だけ撫でた。
「私が、ちゃんと持ってるから」
蓋を閉じて、扉を押した。鈴が、もう一度鳴った。
*
坂に出たところで、配信を戻した。
【コメント】おかえり
【コメント】戻った
【コメント】……小夜ちゃん、目、赤い
【コメント】でも笑ってる
【コメント】何も聞かないでおこう
【コメント】お嬢、いつもの顔してる
「お待たせいたしましたわ、皆様」
わたくしは、日傘を開いた。
「さあ、参りましょう。お見送りは、笑顔でございますわ」




