第158話お見送りは、笑顔でございますわ
空の船は、上層の島々のいちばん外れの桟橋に、横付けされていた。
連絡艇の何倍もある、白く長い船だった。帆も櫂もない。腹の下に、浮き石の青い光が、ゆっくりと脈打っている。甲板の手すりの向こうには、雲しかなかった。その雲の、ずっと向こうへ行く船だった。
【コメント】でかい
【コメント】上のさらに向こう行き
【コメント】乗り場、人少ないな
【コメント】朝の便だからか
鈴村さんが、乗り場の係の方と、硝子の板を挟んで話していた。
話が済むと、鈴村さんは、薄い紙を一枚、小夜さんに差し出した。
「乗船の札です。行き先は、こちらに。……私と、船の方しか、存じません」
「ありがとう、鈴村さん。……いろいろ」
「いいえ。道中、どうか、お気をつけて」
鈴村さんは、深く頭を下げた。
顔を上げたとき、その目が、ほんの一瞬だけ、小夜さんの襟もとに落ちた。
わたくしは、日傘を、ほんの少しだけ傾けた。白いレースの縁が、鈴村さんの目と小夜さんの襟もとのあいだに、下りた。
【コメント】串屋の旦那、最後まで世話焼いてる
【コメント】お嬢、小夜ちゃんに日陰作ってる
【コメント】行き先、本当に二人しか知らないのか
【コメント】お嬢、絶対あの札覗くなよ
【コメント】覗かないだろ、たぶん
【コメント】たぶん(二回目)
ゲイリー様が、小夜さんの旅の鞄を、桟橋の昇降口の前まで運んで、下ろした。
小さな鞄だった。ゲイリー様の手には、ほとんど何も持っていないように見えた。
「……ほらよ」
「ありがと。番も、荷物も」
「日当はもらってる」
「お金出したの、瑠璃華でしょ」
「だから、礼は、あっちに言え」
ゲイリー様は、それきり、そっぽを向いた。
そっぽを向いたまま、言った。
「札のつかねえとこで、元気でやれ」
小夜さんは、笑って、頷いた。
*
光の足場の音がして、白い装甲が、桟橋の端に降りた。
スタロ様だった。今朝は、東の長屋へ寄ってから、ひとつあとの連絡艇で上がってきたらしい。
スタロ様は、小夜さんの前に立って、しばらく黙っていた。
「……困ったら」
言いかけて、止まった。
「……いや」
兜が、少しだけ、うつむいた。
「困るな。……困らないで、いろ」
「うん。スタロも」
小夜さんは、スタロ様の装甲の、腕のところを、軽く叩いた。
スタロ様は、何も言わずに、一歩、下がった。
【コメント】スタロ……
【コメント】困らないで、いろ
【コメント】不器用すぎる
【コメント】届かないって分かってるから言えないんだ
乗り場の柱の陰に、背負子を背負った人影があった。
灯台の丘の石段の下で、瓶を並べている薬売りの方だった。わたくしと目が合うと、小さく頭を下げた。それから、小夜さんの方へ、ためらいながら歩いてきた。
何も、おっしゃらなかった。
薬売りの方は、小夜さんの手に、紙を一枚、そっと載せた。値札くらいの、小さな紙だった。
小夜さんが、表を読んだ。
――また、縄を買いに行きます
小夜さんは、紙を裏返そうとした。
薬売りの方が、その手を、首を振って止めた。
それから、空の船を指さした。
あちらで、と言っているようだった。
小夜さんは、紙を、裏返さないまま、胸の前で握った。
「……うん。あっちで、読む」
【コメント】薬屋さん
【コメント】声、出ないんだよな、あの人
【コメント】裏、何か書いてあるのか
【コメント】船の上で読めって
【コメント】ずるい、それはずるい
*
昇降口の前で、小夜さんが、わたくしの方を向いた。
「瑠璃華」
「はい」
小夜さんは、何か言おうとして、口を開けた。
それから、閉じた。もう一度、開けた。
「……次に会うとき、瑠璃華が今よりもっと有名になってたら、笑う」
「あら。わたくし、今でも十分に有名ですわ」
「悪名でね」
【コメント】w
【コメント】悪名でね
【コメント】最後までそれ
【コメント】否定はしないのな
小夜さんは、笑った。
わたくしも、日傘の下で、笑っていた。
「いってらっしゃいませ、小夜さん」
「いってきます」
小夜さんは、昇降口の段を、上った。
一度だけ、振り返った。わたくしは、日傘を高く上げて、振ってみせた。
昇降口が、閉じた。
空の船が、音もなく、桟橋を離れた。
白い腹が、ゆっくりと雲の上へ滑り出していく。甲板の手すりに、小さな人影がひとつ、寄りかかっていた。
片手に、小さな紙を握っていた。もう片方の手の先で、白いものが、ひらひらと揺れていた。
【コメント】何か振ってる
【コメント】ハンカチ?
【コメント】白いの振ってる
わたくしは、日傘を振り続けた。
船が、小さくなった。雲の切れ間に入って、白い点になった。
白い点が、雲の白に、溶けて見えなくなった。
それでも、しばらく、振っていた。
【コメント】……
【コメント】行った
わたくしは、日傘を、閉じた。
「皆様。本日の配信は、これにて失礼いたしますわ」
視界の端の文字は、もう、ほとんど流れていなかった。わたくしは、読まなかった。
「ごきげんよう」
*
ヘッドギアを外すと、天井が、昼の光で白かった。
枕元の台に、マグカップが置いてあった。朝、ログインする前に淹れたコーヒーが、すっかり冷めていた。
私は、仰向けのまま、天井を見ていた。
手のひらに、まだ、細い鎖の重さが残っている気がした。そんなはずはなかった。ヘッドギアの向こうのものは、こちらには持ってこられない。分かっている。
分かっているのに、手のひらを、開けなかった。
喉の奥から、何かが、こみ上げてきた。
止めようと思った。止める理由が、見つからなかった。
枕に顔を押しつけて、私は、泣いた。
声を出して泣いたのは、いつ以来だろう。思い出せなかった。
窓の外で、どこかの子どもが笑っていた。冷めたコーヒーの匂いがしていた。
「……いってらっしゃい」
誰もいない部屋で、もう一度だけ、言った。
*
次の日、拠点から日向雑貨店へ向かうと、扉に、木の札が一枚、下がっていた。
――空き店
墨の、きちんとした字だった。小夜さんの字ではなかった。
誰が下げたのかは、分からなかった。
札の下の、木目の奥に、一画目の薄い跡が、まだ残っていた。
わたくしは、その前で、日傘を差したまま、少しのあいだ立っていた。




