第155話お店じまいは、ご一緒に
評議会の最初の席は、議事堂で、朝から開かれていた。
坂の上の、日向雑貨店の前で、わたくしは日傘を差していた。議事堂の声は、ここまでは届かない。静かだった。店の三歩手前で古い石畳が終わって、その先は、坂の下手までずっと白い。
ゲイリー様は、水を撒く石の脇に腰を下ろして、その境目を眺めていた。
【コメント】こんにちは
【コメント】評議会、今やってるんだっけ
【コメント】広場の方、人だかりらしい
【コメント】こっちは誰もいない
【コメント】ゲイリー、ちゃんと番してる
客は、来なかった。薬売りの方がひとり来てくださったあとは、誰も――と、小夜さんが言っていた。
小夜さんは、することがないので、棚を拭いていた。上の段から順に、品をどけては拭いて、戻す。いちばん下の段の奥へ、雑巾ごと腕を差し入れたところで、手が止まった。
「……ん?」
引き出されたのは、古い帳面だった。
表紙の角が丸く擦り切れて、糸で綴じた背が、ところどころほつれている。
「おばあちゃんの字だ」
小夜さんは、雑巾を放り出して、その場に座り込んだ。
【コメント】帳面
【コメント】おばあちゃんの
【コメント】棚の奥から出てくるやつ
【コメント】このタイミングで出てくるのか
頁をめくるたびに、小夜さんは小さく笑った。
「『今日、隣の子が飴を三つ買った。二つはお姉ちゃんの分らしい』……誰だろ、これ。『縄の値を上げたら、漁師の源さんが三日来なかった』。……下げたんだ、これ。次の頁で下げてる」
わたくしは、帳場の脇から、それを見ていた。帳面の中は見えない。小夜さんの顔だけが見えた。
最後の頁で、その顔が止まった。
笑いが、引いた。指先が、一行を、ゆっくりなぞる。もう一度なぞる。
それから、小夜さんの目が、まんまるになった。
「……そっか」
ひとりごとだった。
「そっか。……ずるいなあ、おばあちゃん」
小夜さんは、帳面を閉じて、胸に押し当てた。笑っていた。さっきまでの小さな笑いではなく、頬の内側から押し上げてくるような笑い方だった。
「何が、書いてありましたの」
「まだ、言わない」
「まあ」
「瑠璃華には、まだ」
【コメント】まだ、言わない
【コメント】顔が明るくなった
【コメント】最後の頁、何
【コメント】いい知らせっぽい?
小夜さんは、勢いよく立ち上がった。前掛けの埃を、ぱんぱんと払う。
そして、空いている棚と、品の詰まった棚を、端から端まで見渡した。
「決めた。……お店、畳む」
【コメント】は
【コメント】畳む?
【コメント】今の流れで?
【コメント】待って待って
「そろそろ、畳む時期だったのかもね。……おばあちゃんの店だけど」
小夜さんは、窓の外の、白い石畳を顎で示した。
「あれ、もうそこまで来てるでしょ。白くなったら、たぶん、もうおばあちゃんの店じゃなくなる。だったら、白くなる前に、自分で閉めたい。……それにね」
帳面を、軽く叩いた。
「行きたいとこ、できた」
「でしたら」
わたくしは、帳場の前へ、一歩進み出た。
「最後のお客様の席は、わたくしがいただきますわ」
「……え?」
「お店じまいの前に、お買い物をいたしますの。お嬢様は、お店の最後を、お客様のいないまま閉めさせたりはいたしませんわ」
わたくしは、棚の上の、いつもの茶葉の缶を、ひとつ取った。
「こちらを」
【コメント】最後の客
【コメント】そこは譲らないのか
【コメント】ちゃんと買い物する
【コメント】お嬢、たまにかっこいい
小夜さんは、しばらく、わたくしと缶を見比べていた。
それから、耳の上に手をやった。挟んであった鉛筆を抜いて、帳場の紙に、値を書きつける。
初めてこの店の扉を押した日も、その鉛筆は、そこにあった。わたくしを見て、小夜さんはそれを床に落とした。角をなくした人、と呼ばれた。
今日は、落とさなかった。
「……はい。毎度、ありがとうございました」
「お品は、こちらにお預けしておきますわ」
「……持って帰らないの?」
「お茶は、淹れていただくものですもの」
【コメント】耳の鉛筆
【コメント】最初の日のやつだ
【コメント】やめろ、そういうのやめろ
*
ゲイリー様が、戸口から、のそりと顔を出した。
「……おい。畳むなら、箱、どこに運ぶんだ」
「奥の物置。……手伝ってくれるの? 番の人なのに」
「番だけじゃ、日当が多すぎる」
ゲイリー様は、木箱をひとつ、片腕で持ち上げた。小夜さんが目を丸くして、隣の箱を指さした。
「じゃあ、それも。あと、それと、それも」
「……おい」
【コメント】ゲイリー、荷運びに転職
【コメント】日当が多すぎる、って理由
【コメント】三倍払う男が、もらいすぎを気にしてる
【コメント】それと、それも、で増えていくの草
夕方には、棚は空になっていた。
縄の束がひとつだけ、帳場の脇に残っていた。鈴村さんに頼まれている分だという。
小夜さんは、店の真ん中に立って、何もない棚を見回した。それから、ほうきを手に取って、鼻歌まじりに床を掃きはじめた。
「……広いね、この店」
「ええ。次のお店は、もっと広いかもしれませんわね」
「次なんて、決めてないよ」
「では、お決まりになったら、お知らせくださいまし。最初のお客様の席も、わたくしがいただきますもの」
小夜さんは、ほうきの手を止めて、吹き出した。
「最初も最後も取る気なんだ」
「お嬢様ですもの」




