第152話たわしが、三十を数えましたの
昼を過ぎても、扉の字は、まだ半分残っていた。
小夜さんは、桶の水を三度替えた。替えるたびに、すぐに黒くなった。「出ていけ」の一画目の、いちばん太いところが、どうしても落ちなかった。
わたくしは、店の前の石の脇に立って、日傘を差していた。
【コメント】こんにちは
【コメント】まだこすってる
【コメント】朝からずっとだぞ
【コメント】腕、もう上がってないじゃん
【コメント】スタロは?
【コメント】スレだと、東の長屋で誰か探して聞き込みしてるって
坂の下から、足音が上がってきた。
七人、八人。朝、広場の端に固まっていた方々だった。先頭に、指の先の黒い、年配の殿方がいた。
殿方は、店の前で足を止めた。たわしを動かす小夜さんの背中と、まだ残っている扉の字とを、黙って見比べた。
「……落ちねえだろう」
小夜さんの手が、一度だけ止まった。
「その字は、わしが書いた」
【コメント】自分から言った
【コメント】やっぱりあの指
【コメント】言いに来たのかよ
「わしだけじゃねえ。ここにいる皆で書いた。値札の板のも、石のも」
殿方の後ろで、何人かが、目を伏せた。伏せなかった方もいた。
「あんたが通ったあとだけ、街が白くなる。わしの家も、あんたの店の三軒手前まで、白くなった。……壁も、戸も、わしが建てたもんじゃなくなった。便利は便利だ。けどな、生まれた家が、知らねえ家になったんだ」
殿方の声は、怒鳴り声ではなかった。
怒鳴る力も、とうに使い果たしたような声だった。
殿方は、少しだけ息を継いだ。
「上でも、あんたの行く先で、騒ぎばかりだったそうじゃねえか」
殿方の後ろから、若い方が、身を乗り出した。
「上から戻った荷運びが言ってたぞ。組の奴に、紙を渡してたって」
たわしが、止まった。
「……拾って、返しただけ」
小夜さんは、扉の方を向いたまま言った。
大きな声ではなかった。広場で聞こえよがしに言われた言葉よりも、ずっと小さかった。
「落としたから、拾って、返しただけ。……それだけ」
若い方は、鼻で笑った。
殿方は、笑わなかった。少しのあいだ、小夜さんの背中を見ていた。それから、低く言った。
「……出ていってくれ。この街から」
小夜さんは、もう何も言わなかった。
たわしが、また、板の上を往復しはじめた。
【コメント】……
【コメント】悪い人じゃないんだよな、この人たち
【コメント】家が白くなったのは事実だしな
【コメント】でも小夜ちゃんのせいじゃない
【コメント】それを証明できる奴が、いないんだよ
わたくしは、小夜さんと殿方の方々のあいだに、一歩、出た。
日傘を、開いたまま、前に傾けた。
「小夜さんのお店の扉に、悪い字をお書きになったのですね」
「……ああ」
「それは、悪いことですわ」
殿方の後ろから、小さな石が、ひとつ飛んできた。
日傘の布に当たって、乾いた音を立てて、足もとに落ちた。
続けて、もうひとつ。もうひとつ。
投げているのは、殿方ではなかった。後ろの、若い方々だった。石は、わたくしの日傘ばかりに当たった。わたくしの後ろの、小夜さんの背中までは、届かなかった。
【コメント】石
【コメント】お嬢に投げてる
【コメント】いや、小夜ちゃんに投げたのを、お嬢が受けてる
【コメント】日傘、盾にしてる
【コメント】小夜ちゃん、振り向きもしない
背中で、たわしの音がしていた。
ざっ、と板をこする音。
水に浸ける音。
また、ざっ。
わたくしは、その音を、ひとつずつ聞いていた。
ざっ。
ざっ。
【コメント】お嬢、黙ってる
【コメント】……数えてない?
【コメント】たわしの音で
【コメント】スタロ、来ないぞ
【コメント】東にいるんだから、来られないんだよ
【コメント】見張りに帰ったんじゃなかったのか
石が、もうひとつ、日傘に当たった。
殿方が、振り返って、若い方の腕を掴んだ。もうやめろ、と言ったようだった。若い方は、腕を振りほどいて、また石を拾った。
ざっ。
扉の、太い一画目。
まだ、黒いままだった。
向かいの家の二階の窓から、布の陰に隠れて、娘さんがひとり、坂の通りを見下ろしていた。息を詰めて、殿方の背中と、石を拾う若い方の手もとを見ていた。
柔らかい目だった。
ざっ。
「わたくし、お叱りは、一度きりにいたしますの」
わたくしは、日傘を、肩へ戻した。
その目を、お借りした。
――坂の通り。黒い指の殿方。石を握った若い方々。店の前の石畳の、ずっと手前。
三十。
白。
坂の通りが、店の三歩手前から下で、消えた。
消えた、と思ったときには、もう、そこにあった。
白い石畳だった。継ぎ目のひとつもない白が、店の三歩手前から坂の下手まで、まっすぐに敷かれていた。三軒手前の長屋の白い壁と、その白とが、どこにも境目なくつながっていた。
店の扉には、傷ひとつなかった。
【コメント】
【コメント】撃った
【コメント】住人ごと
【コメント】白くなった
【コメント】即だ
【コメント】長屋の白と、つながった
【コメント】店の三歩手前まで、白
【コメント】止めればいいって話じゃない
【コメント】あの人たち、根は悪い人じゃなかったのに
【コメント】扉に書いたのは悪いことだろ
【コメント】それは、そう。けど
【コメント】明日には戻ってくる。……戻ってきて、何て言うんだろうな
背中の音が、止まっていた。
振り返ると、小夜さんが、たわしを握ったまま、扉の前にしゃがんでいた。
白くなった坂の方は、見ていなかった。扉の、太い一画目だけを見ていた。
「……瑠璃華」
「ええ」
小夜さんは、何か言いかけた。
それから、たわしを、桶の水に浸けた。
ざっ、と、また板をこする音がした。
わたくしは、日傘を差したまま、そのそばに立っていた。
足もとの、古い石畳と白い石畳の境目が、店の三歩手前に、まっすぐ一本、引かれていた。




