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悪辣非道お嬢様配信 ~わたくし、お嬢様道を実践しているだけですの~  作者: 白い鴉


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152/172

第152話たわしが、三十を数えましたの

 昼を過ぎても、扉の字は、まだ半分残っていた。


 小夜さんは、桶の水を三度替えた。替えるたびに、すぐに黒くなった。「出ていけ」の一画目の、いちばん太いところが、どうしても落ちなかった。

 わたくしは、店の前の石の脇に立って、日傘を差していた。


【コメント】こんにちは

【コメント】まだこすってる

【コメント】朝からずっとだぞ

【コメント】腕、もう上がってないじゃん

【コメント】スタロは?

【コメント】スレだと、東の長屋で誰か探して聞き込みしてるって


 坂の下から、足音が上がってきた。


 七人、八人。朝、広場の端に固まっていた方々だった。先頭に、指の先の黒い、年配の殿方がいた。

 殿方は、店の前で足を止めた。たわしを動かす小夜さんの背中と、まだ残っている扉の字とを、黙って見比べた。


「……落ちねえだろう」


 小夜さんの手が、一度だけ止まった。


「その字は、わしが書いた」


【コメント】自分から言った

【コメント】やっぱりあの指

【コメント】言いに来たのかよ


「わしだけじゃねえ。ここにいる皆で書いた。値札の板のも、石のも」


 殿方の後ろで、何人かが、目を伏せた。伏せなかった方もいた。


「あんたが通ったあとだけ、街が白くなる。わしの家も、あんたの店の三軒手前まで、白くなった。……壁も、戸も、わしが建てたもんじゃなくなった。便利は便利だ。けどな、生まれた家が、知らねえ家になったんだ」


 殿方の声は、怒鳴り声ではなかった。

 怒鳴る力も、とうに使い果たしたような声だった。

 殿方は、少しだけ息を継いだ。


「上でも、あんたの行く先で、騒ぎばかりだったそうじゃねえか」


 殿方の後ろから、若い方が、身を乗り出した。


「上から戻った荷運びが言ってたぞ。組の奴に、紙を渡してたって」


 たわしが、止まった。


「……拾って、返しただけ」


 小夜さんは、扉の方を向いたまま言った。

 大きな声ではなかった。広場で聞こえよがしに言われた言葉よりも、ずっと小さかった。


「落としたから、拾って、返しただけ。……それだけ」


 若い方は、鼻で笑った。

 殿方は、笑わなかった。少しのあいだ、小夜さんの背中を見ていた。それから、低く言った。


「……出ていってくれ。この街から」


 小夜さんは、もう何も言わなかった。

 たわしが、また、板の上を往復しはじめた。


【コメント】……

【コメント】悪い人じゃないんだよな、この人たち

【コメント】家が白くなったのは事実だしな

【コメント】でも小夜ちゃんのせいじゃない

【コメント】それを証明できる奴が、いないんだよ


 わたくしは、小夜さんと殿方の方々のあいだに、一歩、出た。

 日傘を、開いたまま、前に傾けた。


「小夜さんのお店の扉に、悪い字をお書きになったのですね」

「……ああ」

「それは、悪いことですわ」


 殿方の後ろから、小さな石が、ひとつ飛んできた。

 日傘の布に当たって、乾いた音を立てて、足もとに落ちた。


 続けて、もうひとつ。もうひとつ。

 投げているのは、殿方ではなかった。後ろの、若い方々だった。石は、わたくしの日傘ばかりに当たった。わたくしの後ろの、小夜さんの背中までは、届かなかった。


【コメント】石

【コメント】お嬢に投げてる

【コメント】いや、小夜ちゃんに投げたのを、お嬢が受けてる

【コメント】日傘、盾にしてる

【コメント】小夜ちゃん、振り向きもしない


 背中で、たわしの音がしていた。


 ざっ、と板をこする音。

 水に浸ける音。

 また、ざっ。


 わたくしは、その音を、ひとつずつ聞いていた。


 ざっ。

 ざっ。


【コメント】お嬢、黙ってる

【コメント】……数えてない?

【コメント】たわしの音で

【コメント】スタロ、来ないぞ

【コメント】東にいるんだから、来られないんだよ

【コメント】見張りに帰ったんじゃなかったのか


 石が、もうひとつ、日傘に当たった。

 殿方が、振り返って、若い方の腕を掴んだ。もうやめろ、と言ったようだった。若い方は、腕を振りほどいて、また石を拾った。


 ざっ。


 扉の、太い一画目。

 まだ、黒いままだった。


 向かいの家の二階の窓から、布の陰に隠れて、娘さんがひとり、坂の通りを見下ろしていた。息を詰めて、殿方の背中と、石を拾う若い方の手もとを見ていた。

 柔らかい目だった。


 ざっ。


「わたくし、お叱りは、一度きりにいたしますの」


 わたくしは、日傘を、肩へ戻した。


 その目を、お借りした。


 ――坂の通り。黒い指の殿方。石を握った若い方々。店の前の石畳の、ずっと手前。


 三十。


 白。


 坂の通りが、店の三歩手前から下で、消えた。


 消えた、と思ったときには、もう、そこにあった。

 白い石畳だった。継ぎ目のひとつもない白が、店の三歩手前から坂の下手まで、まっすぐに敷かれていた。三軒手前の長屋の白い壁と、その白とが、どこにも境目なくつながっていた。

 店の扉には、傷ひとつなかった。


【コメント】

【コメント】撃った

【コメント】住人ごと

【コメント】白くなった

【コメント】即だ

【コメント】長屋の白と、つながった

【コメント】店の三歩手前まで、白

【コメント】止めればいいって話じゃない

【コメント】あの人たち、根は悪い人じゃなかったのに

【コメント】扉に書いたのは悪いことだろ

【コメント】それは、そう。けど

【コメント】明日には戻ってくる。……戻ってきて、何て言うんだろうな


 背中の音が、止まっていた。


 振り返ると、小夜さんが、たわしを握ったまま、扉の前にしゃがんでいた。

 白くなった坂の方は、見ていなかった。扉の、太い一画目だけを見ていた。


「……瑠璃華」

「ええ」


 小夜さんは、何か言いかけた。

 それから、たわしを、桶の水に浸けた。


 ざっ、と、また板をこする音がした。


 わたくしは、日傘を差したまま、そのそばに立っていた。

 足もとの、古い石畳と白い石畳の境目が、店の三歩手前に、まっすぐ一本、引かれていた。


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