第151話お話は、広場でございますのね
坂を下りて店の前に着いたとき、空はまだ白くなりきっていなかった。
日向雑貨店の前に、桶がひとつ置いてあった。
小夜さんが、扉の前にしゃがんで、たわしを動かしていた。前掛けの裾を膝の下に敷いて、袖をまくって。たわしが板をこするたびに、桶の水が、少しずつ黒くなっていく。
扉の字は、ほとんど薄くなっていなかった。
店先の鉢植えは、上へ発つ前のまま、少しだけしおれていた。
「……おはようございます、小夜さん」
「おはよ。早いね」
「早めに抜けて、早めに戻りますの。いつものことですわ」
小夜さんは、手を止めなかった。
【コメント】おはよう
【コメント】朝から配信してる
【コメント】小夜ちゃん、もうこすってる
【コメント】字、全然落ちてないな
【コメント】刷毛でなすった墨だもんな
【コメント】NPCが書いた字だから、戻りもしない
わたくしは、日傘を差して、店の前の水を撒く石の脇に立った。
小さな字の書かれた石だった。わたくしは、その石を踏まない場所を選んだ。
「わたくしも、お手伝いいたしましょうか」
「いい」
たわしが、板の上で止まった。
「……これは、わたしが消す。わたしの店の扉だから」
それから、また動き出した。
わたくしは、日傘の柄を肩に預けて、その背中を見ていた。
【コメント】断った
【コメント】自分でやりたいんだな
【コメント】お嬢、見てるだけ
【コメント】見てるだけ、でいいんだよ今は
朝五つの鐘が鳴った。
小夜さんは、たわしを桶に放り込んで、立ち上がった。手を前掛けで拭いて、帳場の奥から、黒塗りの文箱をひとつ取ってくる。
「広場、行かなきゃ。鈴村さんの書類、届けるって約束してるの」
「まあ。今日も、お使いですのね」
「今日も、お使い」
扉の字は、半分も消えていなかった。
*
議事堂の前の広場には、もう人が集まっていた。
階段の下に、木箱が積んであった。昨日、港の乗り場で運び出されていた、灰色の封の箱だ。その前に、衛兵の隊長の関谷様が、木箱の番をするように、腕を組んで立っていた。
小夜さんが近づいていくと、人垣の話し声が、少しずつ低くなった。止まりはしない。ただ、低くなった。
「……来たよ」
「ほら、あの子」
「よく顔を出せるね」
どれも、小夜さんの背中に聞こえるくらいの声だった。
【コメント】聞こえるように言ってる
【コメント】陰口じゃなくて、もう表口
【コメント】小夜ちゃん、前だけ見てる
【コメント】文箱、ぎゅって握ってる
階段の上に、鈴村さんが出てきた。
洗いざらしの着物に、紺の上着を羽織っていた。上で着ていた上着だった。
「皆さん、朝早くから、ありがとうございます」
声は、いつもの屋台で串を返すときと、少しも変わらなかった。
「上でのお話がまとまりましたので、お知らせいたします。……ひとつ目。上の店の品を、下町の店にも卸していただけることになりました」
人垣が、ざわりと動いた。
「上の品なんざ、高くて、下の者は誰も買わねえよ」
前の方で、干物屋の親父さんが言った。
鈴村さんは、頷いた。
「毎日お買いになる物では、ないと思います。ですが、薬や、硝子の部品のように、上にしかない品もございます。これまでは、それを一つ買うのにも、連絡艇の往復の運賃と、乗り場の審査が要りました。下のお店に置けば、それが要らなくなります」
干物屋の親父さんは、しばらく考えてから、腕を組んだ。
それきり、何も言わなかった。
【コメント】買いに行く手間の方の話か
【コメント】ちゃんと考えてある
【コメント】串屋、ほんとに代表やってる
「ふたつ目。争いごとを調える場――評議会を、上の方々と一緒に作ることになりました。最初は、下町から始めます。決まりの一行目は、もう決まっております。ひとつの過ちに、二度の罰は与えない」
【コメント】マリカ様のを、お嬢がずらしたやつ
【コメント】下町の法律にもなった
【コメント】出どころを知ってる人、この広場に何人いるんだろ
「みっつ目」
鈴村さんは、少しだけ間を置いた。
「上の、さらに向こうへ渡る、空の船があります。これまでは、上の方々しか乗れませんでした。これからは、下町の者も乗れます。……行きたい場所のある方は、どうぞ、私のところへ」
広場が、一瞬だけ、静かになった。
隣で、小夜さんが、顔を上げていた。
階段の上の鈴村さんではなく、そのずっと上の、空の方を見ていた。
【コメント】空の船
【コメント】上のさらに向こう
【コメント】下町から、そんなとこまで行けるのか
【コメント】小夜ちゃん、空見てる
「――じゃあ、その船に、あの子を乗せてやったらいいじゃないか」
人垣の後ろから、声がした。
「出ていってくれるなら、ありがたい。この街のためだ」
笑い声が、いくつか起きた。起きて、すぐに消えた。
鈴村さんは、声のした方を、穏やかに見た。
「小夜さんには、上でも、ずいぶん助けていただきました。私の書類は、いつも小夜さんが運んでくださっています。……今朝も、こうして」
鈴村さんは、階段を下りてきて、小夜さんの前で、手を差し出した。
小夜さんが、文箱を渡した。
「ありがとうございます。いつも、助かります」
それだけだった。
声を荒げることも、人垣を叱ることもなかった。それで、広場は、何となく静かになった。
【コメント】旦那……
【コメント】かばった
【コメント】やわらかいのに、ちゃんと黙らせた
【コメント】この人が代表でよかった
わたくしは、文箱を受け取る鈴村さんの手を、少しのあいだ見ていた。
*
広場を出るとき、わたくしは、人垣の端を見た。
七、八人の方々が、固まって立っていた。坂の下手の、白い壁の長屋の前で見かけたことのある方々だった。雑貨店の三軒手前まで続く、あの長屋だ。
その方々は、小夜さんの方を見ていなかった。鈴村さんの方も。ただ、黙って、地面を見ていた。
その少し後ろで、小さな男の子の手を引いたお爺さんだけが、小夜さんに、小さく頭を下げた。小夜さんは、気づかなかった。
いちばん前の、年配の殿方の指の先が、黒く汚れていた。
爪の間まで、洗っても落ちない色をしていた。
「……瑠璃華、帰るよ」
小夜さんが、わたくしの袖を引いた。
「扉、続き、やる」
「ええ」
わたくしは、もう一度だけ、その指の先を見た。
それから、小夜さんのあとについて、坂の方へ歩き出した。
【コメント】今の、指
【コメント】黒かった
【コメント】……え、まさか
【コメント】決めつけるのやめよう、それやってるの今の下町だぞ
【コメント】それはそう




