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悪辣非道お嬢様配信 ~わたくし、お嬢様道を実践しているだけですの~  作者: 白い鴉


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151/172

第151話お話は、広場でございますのね

 坂を下りて店の前に着いたとき、空はまだ白くなりきっていなかった。


 日向雑貨店の前に、桶がひとつ置いてあった。

 小夜さんが、扉の前にしゃがんで、たわしを動かしていた。前掛けの裾を膝の下に敷いて、袖をまくって。たわしが板をこするたびに、桶の水が、少しずつ黒くなっていく。


 扉の字は、ほとんど薄くなっていなかった。

 店先の鉢植えは、上へ発つ前のまま、少しだけしおれていた。


「……おはようございます、小夜さん」

「おはよ。早いね」

「早めに抜けて、早めに戻りますの。いつものことですわ」


 小夜さんは、手を止めなかった。


【コメント】おはよう

【コメント】朝から配信してる

【コメント】小夜ちゃん、もうこすってる

【コメント】字、全然落ちてないな

【コメント】刷毛でなすった墨だもんな

【コメント】NPCが書いた字だから、戻りもしない


 わたくしは、日傘を差して、店の前の水を撒く石の脇に立った。

 小さな字の書かれた石だった。わたくしは、その石を踏まない場所を選んだ。


「わたくしも、お手伝いいたしましょうか」

「いい」


 たわしが、板の上で止まった。


「……これは、わたしが消す。わたしの店の扉だから」


 それから、また動き出した。

 わたくしは、日傘の柄を肩に預けて、その背中を見ていた。


【コメント】断った

【コメント】自分でやりたいんだな

【コメント】お嬢、見てるだけ

【コメント】見てるだけ、でいいんだよ今は


 朝五つの鐘が鳴った。


 小夜さんは、たわしを桶に放り込んで、立ち上がった。手を前掛けで拭いて、帳場の奥から、黒塗りの文箱をひとつ取ってくる。


「広場、行かなきゃ。鈴村さんの書類、届けるって約束してるの」

「まあ。今日も、お使いですのね」

「今日も、お使い」


 扉の字は、半分も消えていなかった。


   *


 議事堂の前の広場には、もう人が集まっていた。


 階段の下に、木箱が積んであった。昨日、港の乗り場で運び出されていた、灰色の封の箱だ。その前に、衛兵の隊長の関谷様が、木箱の番をするように、腕を組んで立っていた。

 小夜さんが近づいていくと、人垣の話し声が、少しずつ低くなった。止まりはしない。ただ、低くなった。


「……来たよ」

「ほら、あの子」

「よく顔を出せるね」


 どれも、小夜さんの背中に聞こえるくらいの声だった。


【コメント】聞こえるように言ってる

【コメント】陰口じゃなくて、もう表口

【コメント】小夜ちゃん、前だけ見てる

【コメント】文箱、ぎゅって握ってる


 階段の上に、鈴村さんが出てきた。

 洗いざらしの着物に、紺の上着を羽織っていた。上で着ていた上着だった。


「皆さん、朝早くから、ありがとうございます」


 声は、いつもの屋台で串を返すときと、少しも変わらなかった。


「上でのお話がまとまりましたので、お知らせいたします。……ひとつ目。上の店の品を、下町の店にも卸していただけることになりました」


 人垣が、ざわりと動いた。


「上の品なんざ、高くて、下の者は誰も買わねえよ」


 前の方で、干物屋の親父さんが言った。

 鈴村さんは、頷いた。


「毎日お買いになる物では、ないと思います。ですが、薬や、硝子の部品のように、上にしかない品もございます。これまでは、それを一つ買うのにも、連絡艇の往復の運賃と、乗り場の審査が要りました。下のお店に置けば、それが要らなくなります」


 干物屋の親父さんは、しばらく考えてから、腕を組んだ。

 それきり、何も言わなかった。


【コメント】買いに行く手間の方の話か

【コメント】ちゃんと考えてある

【コメント】串屋、ほんとに代表やってる


「ふたつ目。争いごとを調える場――評議会を、上の方々と一緒に作ることになりました。最初は、下町から始めます。決まりの一行目は、もう決まっております。ひとつの過ちに、二度の罰は与えない」


【コメント】マリカ様のを、お嬢がずらしたやつ

【コメント】下町の法律にもなった

【コメント】出どころを知ってる人、この広場に何人いるんだろ


「みっつ目」


 鈴村さんは、少しだけ間を置いた。


「上の、さらに向こうへ渡る、空の船があります。これまでは、上の方々しか乗れませんでした。これからは、下町の者も乗れます。……行きたい場所のある方は、どうぞ、私のところへ」


 広場が、一瞬だけ、静かになった。


 隣で、小夜さんが、顔を上げていた。

 階段の上の鈴村さんではなく、そのずっと上の、空の方を見ていた。


【コメント】空の船

【コメント】上のさらに向こう

【コメント】下町から、そんなとこまで行けるのか

【コメント】小夜ちゃん、空見てる


「――じゃあ、その船に、あの子を乗せてやったらいいじゃないか」


 人垣の後ろから、声がした。


「出ていってくれるなら、ありがたい。この街のためだ」


 笑い声が、いくつか起きた。起きて、すぐに消えた。

 鈴村さんは、声のした方を、穏やかに見た。


「小夜さんには、上でも、ずいぶん助けていただきました。私の書類は、いつも小夜さんが運んでくださっています。……今朝も、こうして」


 鈴村さんは、階段を下りてきて、小夜さんの前で、手を差し出した。

 小夜さんが、文箱を渡した。


「ありがとうございます。いつも、助かります」


 それだけだった。

 声を荒げることも、人垣を叱ることもなかった。それで、広場は、何となく静かになった。


【コメント】旦那……

【コメント】かばった

【コメント】やわらかいのに、ちゃんと黙らせた

【コメント】この人が代表でよかった


 わたくしは、文箱を受け取る鈴村さんの手を、少しのあいだ見ていた。


   *


 広場を出るとき、わたくしは、人垣の端を見た。


 七、八人の方々が、固まって立っていた。坂の下手の、白い壁の長屋の前で見かけたことのある方々だった。雑貨店の三軒手前まで続く、あの長屋だ。

 その方々は、小夜さんの方を見ていなかった。鈴村さんの方も。ただ、黙って、地面を見ていた。


 その少し後ろで、小さな男の子の手を引いたお爺さんだけが、小夜さんに、小さく頭を下げた。小夜さんは、気づかなかった。


 いちばん前の、年配の殿方の指の先が、黒く汚れていた。

 爪の間まで、洗っても落ちない色をしていた。


「……瑠璃華、帰るよ」


 小夜さんが、わたくしの袖を引いた。


「扉、続き、やる」

「ええ」


 わたくしは、もう一度だけ、その指の先を見た。

 それから、小夜さんのあとについて、坂の方へ歩き出した。


【コメント】今の、指

【コメント】黒かった

【コメント】……え、まさか

【コメント】決めつけるのやめよう、それやってるの今の下町だぞ

【コメント】それはそう


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