第150話お出迎えは、ございませんのね
連絡艇の白い腹が、港の乗り場の桟橋に、音もなく触れた。
硝子張りの待合所。光で書かれた時刻表。柱の天辺で首を振る、硝子の目。
上へ発つ前と、何ひとつ変わっていなかった。潮の匂いと、荷揚げ場の掛け声と、遠くで鳴る鐘の音が、昇降口の向こうから流れ込んできた。
「……下だ」
小夜さんが、昇降口の縁に手をかけたまま、小さく言った。
【コメント】帰ってきた
【コメント】下町だ
【コメント】鐘の音、久しぶりに聞いた
【コメント】全員そろって帰ってきた
【コメント】ゲイリー、まだ不貞腐れてる
鈴村さんが、最初に桟橋へ降りた。
乗り場の係の方が、走ってきた。帽子を取って、深く頭を下げた。上へ発つ前、ゲイリー様の審査の紙をめくっていた方だった。
「代表。上から、お荷物が届いております。代表宛てに、ひと便ぶん」
艇の腹が開いて、木箱が次々と運び出されていた。どの蓋にも、灰色の封が押してある。上の役所の、硝子の塔の印だった。
「上の方々が、下町の店にも、少しずつ回してくださるそうで」
鈴村さんは、係の方に穏やかに笑いかけて、書類の束を一枚めくった。
「明日、広場で、皆さんにお話しいたします。今日のところは、倉へ」
「へい。……あの、代表」
係の方の目が、鈴村さんの肩越しに、昇降口の方へ動いた。
小夜さんが、ちょうど、桟橋に降り立ったところだった。
「……いえ。なんでも」
係の方は、帽子をかぶり直して、木箱の方へ走っていった。
【コメント】上の役所の封
【コメント】代表宛てに、ひと便ぶん
【コメント】串屋の旦那、上と話つけてきたのか
【コメント】係の人、今、小夜ちゃん見たよな
【コメント】見て、やめた
ゲイリー様が、昇降口から桟橋に降りて、大きく伸びをした。
「……下の手配書、見てくる。安い札でも、札は札だ」
熊の毛皮が、港の詰所の方へ、のしのしと遠ざかっていった。
最後に降りてきたスタロ様は、何も言わなかった。装甲の胸の内側に、一度だけ手を当ててから、光の足場を蹴った。東の方角だった。
【コメント】ゲイリー、切り替え早い
【コメント】スタロ、東へ
【コメント】東の長屋だろ。上にいる間、ずっと放ってあったって言ってた
【コメント】手紙もあるしな
*
港の通りは、夕方の人出だった。
荷車が行き交っていた。黒い羽織と灰色の上着が、帳面の端と端を持って、荷を数えていた。魚の桶を担いだ方。縄を肩に巻いた方。串の煙。
どなたも、手を止めなかった。
ただ、通りの真ん中に、道ができた。
わたくしたちが歩いていくと、人の流れが、左右へ、ほんの少しずつ割れた。荷車が、わざわざ向きを変えた。立ち話をしていたおかみさんたちが、口を閉じて、背中を向けた。
割れた真ん中を、小夜さんが歩いていた。
【コメント】道、あいた
【コメント】お嬢を避けてる?
【コメント】いや
【コメント】お嬢を避けるなら、いつもはもっと大きく割れる
【コメント】今日のは、小夜ちゃんの分の幅だ
小夜さんは、前を見て歩いていた。
襟の中に、指を一本、差し込んでいた。首飾りの鎖のあたりだった。
魚屋の店先で、小さな男の子が、こちらに手を振りかけた。
母親が、その手首を掴んで、店の奥へ引き込んだ。
「……あの子、前に、うちで飴、買ってった」
小夜さんが言った。誰に言ったのでもない声だった。
【コメント】うわ
【コメント】子どもの手、引っ込められた
【コメント】下町の掲示板、上にいた間にもう答え出してたもんな
【コメント】白いのが止まったの、二人がいなかった間だけ
【コメント】お嬢もいなかっただろ
【コメント】お嬢は「見えてる」からな。小夜ちゃんは「裏」の方にされた
わたくしは、魚屋の奥の暗がりを見た。
それから、背中を向けたおかみさんたちを。木箱の陰から、こちらを窺っている人足の方を。暖簾を下ろしかけて、手を止めた串の屋台の方を。
ひとつずつ、見ていった。
どなたとも、目は合わなかった。
【コメント】お嬢、黙ってる
【コメント】ひとりずつ見てる
【コメント】この顔、前にも見た気がする
【コメント】縁の会の前の、静かなやつ
*
坂の角まで来ると、鈴村さんが足を止めた。
屋台は、布をかけられたまま、上へ発つ前の場所に置いてあった。鈴村さんが布をめくると、炭の箱も、タレの壺も、そのままだった。
「私は、こちらで。明日の支度がございますので」
鈴村さんは、小夜さんの方へ向き直った。
「小夜さん。今日は、ゆっくりお休みください。……お店のことは、明日、考えれば」
「……うん」
「何かあれば、すぐに。ここにおりますから」
小夜さんは頷いて、坂を上りはじめた。
わたくしは、鈴村さんに会釈をして、その後ろについた。
坂の下手には、白い壁が並んでいた。
継ぎ目のない、つるりとした白。上へ発つ前に、わたくしが板塀の長屋ごとお片付けした、その跡だった。白は坂を上るにつれて途切れて、雑貨屋の三軒手前で、古い板壁に戻る。
白い壁の窓のひとつで、内側の布が、すっと引かれた。
【コメント】坂の下手
【コメント】白いとこ
【コメント】雑貨屋の三軒手前で止まってるやつ
【コメント】今、窓の布、引かれた?
【コメント】見てた
*
日向雑貨店の扉は、閉まっていた。
上へ発つ前に、小夜さんが自分で鍵をかけた扉だった。
その板いっぱいに、墨の字が書いてあった。
――出ていけ
大きな字だった。筆ではなく、刷毛か何かで、なすりつけたような字だった。その下に、もっと小さな字が、いくつも、いくつも重なっていた。読める字も、読めない字もあった。
扉の脇の、値札を貼る板にも。店の前の、水を撒く石にも。
【コメント】は?
【コメント】扉
【コメント】出ていけ、って
【コメント】クマの配信で、しじみが言ってたやつだ
【コメント】本当に、書かれてる
【コメント】組の長屋に書かれてたのと同じ
【コメント】スタロ呼べよ
【コメント】さっき東に跳んでった
【コメント】あっちも、ずっと放ってあった所だからな
小夜さんは、扉の前で、立ち止まっていた。
鍵を、手のひらに載せたまま。
わたくしは、小夜さんの隣に立った。
日傘の柄を握った手のひらが、ひどく冷たかった。
「小夜さん」
「……開けるね」
小夜さんは、鍵を差し込んだ。
回して、扉を押した。
頭の上で、小さな鈴が鳴った。
いつもと同じ音だった。
棚は、上へ発つ前に片付けたまま、半分が空いていた。床には、埃がうっすらと積もっていた。
小夜さんは、前掛けの紐を結び直した。それから、店の奥の、桶の置いてある方へ歩いていった。
「……明日、消す」
背中のまま、小夜さんが言った。
「今日は、もう暗いから。明日、明るくなったら、消す」
【コメント】小夜ちゃん……
【コメント】泣かないんだな
【コメント】泣けよ、むしろ
【コメント】お嬢、何か言ってやれ
わたくしは、何も申し上げなかった。
開いたままの扉の内側から、坂の下手を見下ろした。
白い壁の窓に、ひとつ、またひとつと、灯りがともりはじめていた。




