第146話お叱りは、一度きりでございますわ
宿の食堂の戸口に、灰色の制服の方が立っていた。
硝子の板を胸に抱えた、若い書記の方だった。昨日、役所の廊下の角で、扉の前に座り込んだ小夜さんを見て、何かを書きつけていた方だ。
書記の方は、食堂の中を見回して、わたくしの日傘で目を止めた。
「九条院、瑠璃華様で、いらっしゃいますか」
「ええ」
「役所の島まで、お越しいただけますでしょうか。……今日の、桟橋のことで、お尋ねしたいことがあると」
【コメント】役所から呼び出し
【コメント】ついに来たか
【コメント】桟橋の件って、横取りの三人?
【コメント】それとも組を撃たなかった方?
【コメント】捕まるの? お嬢
【コメント】札出てないから捕まらないって
窓際の卓で、小夜さんが、背負子の紐を握ったまま顔を上げた。
「……わたしも行く」
「小夜さんも?」
「鈴村さんに、便がなくなったって、言わなきゃ。……今日は、昨日みたいに扉の外で待つの、やだし」
書記の方は、少しだけ迷うような顔をした。それから、硝子の板に何かを書き足して、頷いた。
*
通されたのは、三本目の塔の、扉の内側だった。
昨日、小夜さんが長いこと待っていた扉の、向こう側だった。中は思っていたより狭くて、大きな円い卓がひとつ、壁に光の板が二枚。円卓のまわりに、灰色の制服の方々が五人ほど座っていた。
その中に、紺の上着の襟を閉めた鈴村さんがいた。
「小夜さん。それに、九条院様も」
鈴村さんは、椅子から少し腰を浮かせた。小夜さんが、その袖の端を、ちょんとつまんだ。
「便、なくなった。明日の昼まで」
「ええ。こちらでも、伺いました」
鈴村さんは、小夜さんの手の上に、そっと自分の手を重ねてから、離した。
円卓のいちばん奥に、背の高い女の方が座っていた。
硝子の板を胸に抱えて、わたくしの方を、まっすぐに見た。
「お呼び立てして、申し訳ありません。少しだけ、お時間を」
「ごきげんよう。お茶会のお誘いかしら」
「いいえ」
女の方は、表情ひとつ変えなかった。
壁の光の板に、絵が映った。桟橋の上の空に浮かぶ、五隻の艇。甲板の上で、殴り合う組の方々。その真ん中を、光の足場で跳んでいく白い影。
「今日の昼、桟橋で起きたことです。あなたは、組の者たちを撃たなかった」
「ええ」
「昨日のあなたは、同じ者たちを、空でまとめて吹き飛ばした。今日も、同じ者たちが、同じ場所で、同じ争いをしていた。……なぜ、撃たなかったのですか」
【コメント】そこ聞くんだ
【コメント】役人、ちゃんと見てる
【コメント】そりゃ気になるよな
【コメント】昨日は撃って、今日は撃たない
【コメント】基準が分からないって、役所にまで言われてる
わたくしは、日傘を胸の前に立てた。
「昨日、お叱りいたしましたもの」
「……お叱り」
「わたくし、同じことで二度は、お叱りいたしませんの」
女の方の指が、硝子の板の上で止まった。
「二度目の過ちには、二度目のお叱りを。けれど、ひとつの過ちに二度のお叱りは、互いのためになりませんわ。……尊敬するお方の、教えですの」
部屋が、しんとした。
【コメント】マリカ様の名言、役所で言った
【コメント】上層の役所で
【コメント】恋愛相談の言葉が、決まりの一行目になった
【コメント】お前のことだよ……とも言い切れない、今日のは
【コメント】それな
女の方は、しばらく、何もおっしゃらなかった。
それから、硝子の板に、指で文字を書きはじめた。ゆっくりと、一字ずつ。
「……ひとつの過ちに、二度の罰を与えない」
読み上げる声は、ひどく平らだった。
「昨日から、ずっと、この卓で話し合っていました。下にも上にも、争いを、話し合いで調える場が要る、と。……ですが、その場で、何を決まりにするのか。そこで、ずっと止まっていました」
女の方は、円卓の方々を見回した。
「罰を受けた者には、同じ件で、重ねて罰を与えない。牢に入った者は、牢で償う。それ以上の罰は、誰の手でも与えない。……英雄の方であっても、です」
円卓の方々が、顔を見合わせた。一人が頷いた。もう一人も。
【コメント】決まりになった
【コメント】英雄の方であっても、って
【コメント】金ピカのことだよな
【コメント】牢の十二人
【コメント】スタロが捕まえた十二人、これで……
【コメント】折り目の袖の子も、あの中だ
【コメント】縄の外の母ちゃん、これ聞いたら座り込むぞ
【コメント】お嬢の一言で、上層の決まりが一個できた
【コメント】マリカ様、上層の法律になってますよ
【コメント】誰か本人に教えてやれ
「よい言葉だと思います」
鈴村さんが、静かに言った。
「下町でも、同じことで、何度も揉めてまいりました。昨日の恨みを、今日もう一度晴らそうとして。……最初の決まりとして、これほど分かりやすいものも、ないでしょう」
「では、それを、最初の一文に」
女の方は、硝子の板を胸に抱え直した。
「争いを調える場は、まず、下町から始めます。いちばん揉め事の多い所から。……下町の代表に、その場を預けます」
女の方は、円卓の上を、細長い札を一枚、鈴村さんの前へ滑らせた。
白い硝子の札だった。三本の塔の印が、青く光っていた。
「下からの頼みごとは、これで、まっすぐ私のところへ届きます。荷のことでも、人のことでも。……以上です」
鈴村さんは、札を両手で受け取って、深く頭を下げた。
「ありがたく、お預かりいたします」
【コメント】話が早い
【コメント】鈴村さん、上と直通
【コメント】串屋が、ここまで来た
【コメント】評議会、下町から
【コメント】決まりの最初の一文、お嬢の名言
【コメント】正確にはマリカ様の
【コメント】正確には、お嬢がずらしたマリカ様の
*
塔を出ると、日が傾きかけていた。
小夜さんは、鈴村さんの隣を歩いていた。硝子の廊下に、二人ぶんの影が長く伸びていた。鈴村さんの懐で、白い札が、ときどき青く光った。
「……瑠璃華の言葉、決まりになっちゃったね」
「わたくしの言葉ではございませんわ。尊敬するお方の、お言葉ですもの」
「でも、言ったのは瑠璃華だよ」
小夜さんは、少しだけ笑った。
上へ来てから、いちばん、ちゃんとした笑い方だった。
「スタロに、教えてあげなよ。……桟橋で、捕まえた人たちの列、ずっと見てたでしょ」
「まあ。スタロ様が?」
わたくしは、首を傾げた。
桟橋の方角の空を見ると、島と島のあいだを、小さな白い光が、ひとつ跳んでいくところだった。




