第143話昨日の続きは、お叱りいたしませんの
昼の鐘が、鳴った。
上層でただ一度の鐘だった。島々の塔に、低く、長く、響いていった。
桟橋の欠けた端の先が、ゆらりと歪んだ。
白い石の板が、杭が、昨日の形のまま、雲の上へつながった。その先端に、連絡艇の白い腹が、横付けのまま戻っていた。
そして、そのすぐ上の低い空に、五隻の艇があった。
ばらばらの高さで、ばらばらの方角へ、傾いたまま浮いていた。昨日、昇っていく途中で、わたくしが空でまとめてお片付けした、その場所に。
甲板の上で、組の方々が、ひとり、またひとりと身を起こしていく。頭を振る方。自分の手のひらを、確かめるように握って開く方。鉄の帯を巻いた木箱を、昨日のまま両腕に抱えている方。
【コメント】戻った
【コメント】ほんとに鐘で戻った
【コメント】箱も戻ってる
【コメント】いちばん低い艇、赤い袖
【コメント】折り目の子、いる
【コメント】母ちゃん、見てる
縄の前で、灰色の上着の背中が、ほんの少しだけ前に出た。衛兵の方が、腕を伸ばして止めた。
白い布の方が、顔を上げた。桟橋の上の、銀の胸甲を見下ろした。
「……スターグリントだ」
「戻るとこを、待ってやがった」
甲板の上の声が、ひとつずつ、途切れていった。昨日まで桟橋の端だった所で、スターグリント様が、白い歯を見せていた。
「――飛べ! 舵を握れ!」
五隻が、いっせいに舵を切った。近すぎた。艇と艇が、宙で腹をぶつけ合った。舵に手を伸ばした腕を、隣の艇から鳴った連射が弾いた。ぶつかった拍子に、鉄の帯の木箱がいくつか、艇の縁からこぼれて、桟橋の先端の板に落ちた。
「どけ! 昨日、先に手を出したのは、てめえらだろうが!」
「紙を寄越したのは、そっちだろうが!」
逃げ道は、空にしかなかった。空へ出るには、隣の艇が邪魔だった。そして隣の艇には、昨日の「よその組」が乗っていた。
どの艇も、離れかけては隣の艇に腹を押さえ込まれ、桟橋の先の上から動けずにいた。
【コメント】結局やり合うのか
【コメント】逃げたいのに、隣が昨日の相手
【コメント】紙の恨み、そのまま
桟橋の上から、銀の胸甲が跳んだ。
「ハーッハッハッハ! 待っていたぞ、悪党ども!」
同時に、桟橋の根もとから、光の足場の音が駆けていった。
スタロ様は、光の足場を三つ蹴って、押し合う艇のいちばん手前に飛び込んで、白い布の方を一人、甲板から引きずり出していた。
「ささない!」
スタロ様が、こちらを見ないまま、怒鳴った。
「今日は、ささない! 一人も、ささない! ……だから、撃たないでくれ! 頼む! 俺が全部、捕まえる!」
【コメント】ささない、って言った
【コメント】ささないって言ったら、待たない約束だろ
【コメント】撃たれるぞ!?
【コメント】分かってて頼んでる
わたくしは、日傘を傾けた。
「ご安心なさいまし、スタロ様。こちらの方々は、昨日お叱りしましたので、今日はもうお叱りいたしませんわ」
スタロ様の背中が、止まった。
「二度目の過ちには、二度目のお叱りを。けれど、ひとつの過ちに二度のお叱りは、互いのためになりませんわ。……尊敬するお方の、教えですの」
昨日と同じ方々が、昨日と同じ相手と、昨日と同じ箱を奪い合っていた。
「あちらの方々は、昨日の続きをなさっているだけですもの。そういうわけですわ」
スタロ様は、一度だけ、振り返った。
何かおっしゃりかけて、やめた。それから、引きずり出した方を抱えて、桟橋へ降りていった。
【コメント】撃たない宣言
【コメント】マリカ様のやつ
【コメント】恋愛相談の名言を、組の抗争に
【コメント】昨日の続きだからセーフ判定
【コメント】判定、お嬢基準
【コメント】スタロ、身構え損
一人を桟橋に押さえつけて、縄を巻いて、次の一人へ。艇と艇のあいだで鳴り続ける連射の火花の中を、白い影が、上へ、横へ、縫うように抜けていく。
艇の向こう側では、銀の胸甲が拳を振るうたびに、そこだけが、ふっと静かになった。
縄の前の女の方が、静かになった艇の方へ、顔を向けた。包みを抱いた腕に、力が入るのが分かった。いちばん低い艇ではなかった。女の方は、また、いちばん低い艇を探した。
【コメント】静かになるたびに、母ちゃん、見てる
【コメント】自分の子の艇じゃないか、確かめてる
【コメント】やめてくれ、これ
【コメント】……お嬢が撃ってたら、どうなってた?
【コメント】また全員吹っ飛んで、明日また鐘で戻って、明日また金ピカの前
【コメント】それ、毎日やるのか
【コメント】撃たなかったから、捕まえる時間ができたんだな
【コメント】お嬢は、たぶん、そういうつもりじゃない
【コメント】つもりじゃないのが、お嬢なんだよ
隣で、手配書の束をめくる音がした。
「……わけ分かんねえ。けど、撃たねえなら、それでいい」
ゲイリー様は、手配書の束を懐にねじ込んで、縄をくぐった。桟橋の先端すれすれに、いちばん低い艇が傾いて浮いていた。熊の毛皮が、助走をつけて跳び、舷べりに両手をかけて、よじ登っていった。
「三つ。俺の分だ。金ピカに、持ってかれてたまるか」
【コメント】ゲイリー、いちばん低い艇
【コメント】折り目の子の艇だ
【コメント】手配書の顔、あの艇に二つ乗ってる
*
桟橋の根もとで、別の動きがあった。
待合所の脇の、荷物置き場の陰。便を待つ方々の中から、外套の三人が、すっと縄をくぐった。桟橋の先端の板に転がった、鉄の帯の木箱の方へ。
三人は、木箱をひとつずつ担いだ。そのまま、桟橋を根もとの方へ戻って、脇につながれた小さな艇の方へ歩いていった。
外套の頭巾が、ひとつ、風でめくれた。その頭の上に、赤い札が、ぽつりと灯っていた。
【コメント】おい
【コメント】箱、持ってかれてる
【コメント】頭の上、赤い札
【コメント】プレイヤーだ、賞金首
【コメント】どさくさで横取りする気だ
【コメント】スタロも、金ピカも、ゲイリーも、艇の方
縄の内側で、若い衛兵の方が一人、光線の長銃を抱えたまま、艇の殴り合いに見入っていた。
柔らかい目だった。
「お待ちする理由は、ございませんでしたものね」
小さな艇の舷べりに、最初の木箱が載った。
その目を、お借りした。
――桟橋の脇。小さな艇と、外套の三つの背中。鉄の帯の木箱。
白。
桟橋の脇の白い石が、ひとかじり、空へ抜けた。小さな艇も、外套の三人も、鉄の帯の木箱も。
光の粒が、三つ、昇っていった。木箱の中にあったものが、ばらばらと、雲の下へ降っていった。
【コメント】横取り組、消えた
【コメント】金、また空に撒いた
【コメント】二日連続
【コメント】あの三人は、拠点で起きて舌打ちしてるだろ
【コメント】金も、明日の昼にまた戻ってくる
【コメント】金の配達、一日遅れ
【コメント】それを配達って言うな
若い衛兵の方が、長銃を抱えたまま、ぽかんと口を開けていた。足もとの白い石の縁が、ちょうど、その方の爪先の手前で途切れていた。
艇の上の殴り合いは、まだ続いていた。縄の前の女の方は、こちらを一度も振り返らなかった。
【コメント】母ちゃん、こっちの爆発、見てもいない
【コメント】それどころじゃないんだよ
【コメント】撃ったのは、新しく悪いことした三人だけ
【コメント】基準、通ってるのが一番こわい
衛兵の方々の隊長らしい方が、縄の前で、硝子の板に向かって叫んでいた。
「下町行きの便は、本日、取りやめ! 桟橋は、調べが済むまで閉める! 繰り返す、本日の便は――」
待合所の窓の内側で、小夜さんが、背負子の紐を、ゆっくりと腕から外した。




