第142話お昼の鐘に、お戻りになるそうですわ
寝台の真上に、茶色い輪がひとつ。
宿のお部屋の天井の染みを見上げてから、わたくしは起き上がった。窓の外は、もう明るかった。島と島のあいだの空に、昨日の黒い煙は、一本も残っていなかった。
「ごきげんよう、皆様」
【コメント】おはよう
【コメント】おはお嬢
【コメント】今日、帰るんだよな?
【コメント】下町行き、戻るって話だった
【コメント】小夜ちゃん、寝れたかな
「ええ。お昼の便が戻りましたら、下へ帰りますわ。小夜さんのお使いも、そろそろおしまいですもの」
【コメント】よかった
【コメント】長かったな、上
【コメント】お使い(島がいくつか吹っ飛んだ)
鏡の前で、縦ロールの具合を確かめた。
小箱の蓋を、一度だけ開けて、閉じた。
*
宿の食堂は、いつもより静かだった。
小夜さんは、窓際の卓に、もう座っていた。足もとに、背負子がひとつ。上へ来るときに担いできた籠が、紐できっちりと括りつけてあった。
向かいで、鈴村さんが湯呑を傾けていた。紺の上着の襟を、もう閉めていた。
「おはようございます、九条院様。昨日の続きが、朝いちばんからございまして」
隣の卓では、ゲイリー様が、空の皿を三枚重ねていた。
食堂の壁の板が、青白く灯った。
『――おはようございます、エバーポートNEWS、美城アリアです。今朝の見出しです』
アリア様の声は、昨日の緊急中継と同じ、落ち着いた声だった。
『昨日正午の組どうしの衝突で吹き飛ばされた組の者たちは、本日昼の鐘のころ、連絡艇の桟橋の上空に戻る見込みです。昨日欠け落ちた桟橋の先と、下町行きの連絡艇も、同じ刻に戻る見込みとのことです。桟橋には衛兵隊が待機。また、英雄スターグリントも、現場で待ち構えるとのことです』
板が、桟橋の絵に切り替わった。白い石の桟橋は、先の半分が、昨日のまま欠けていた。その欠けた端に、銀の胸甲が一人、腕を組んで立っていた。
『市民の皆さまは、昼の鐘の前後、桟橋には近づかないようにしてください。……なお、下町行きの連絡艇は、戻りしだい、昼の鐘ののちに折り返し運航する予定です』
【コメント】戻ってくる
【コメント】昨日まとめて吹っ飛んだもんな
【コメント】金ピカ、もう立ってる
【コメント】朝から待ってんのか
【コメント】で、下町行きも、昼の鐘ののち
【コメント】同じ時間!?
【コメント】同じ桟橋!?
小夜さんの湯呑が、卓の上で、かたりと鳴った。
「……同じ時間」
鈴村さんが、湯呑を置いた。
「小夜さん。昼の便は、見送ってもかまいません。次の便は、また出ますから」
「乗る。帰る。今日、帰る」
鈴村さんは、少しのあいだ、小夜さんの横顔を見ていた。それから、穏やかに頷いた。
「分かりました。私は、話し合いが済みしだい、後の便で参ります。……桟橋では、九条院様と、ゲイリー様のおそばを離れませんように」
鈴村さんが出ていくと、ゲイリー様が、懐から手配書を三枚、卓に並べた。白い布の頭目。首に青い布の、目の細い男。赤い袖の、片耳の欠けた男。
「昼の鐘に戻ってくる顔だ。……戻ってきたところを、金ピカより先に、俺が捕まえる」
【コメント】ゲイリー、やる気
【コメント】捕まえる、の方なのがいい
【コメント】金ピカに先越されたら、賞金ゼロだもんな
【コメント】ゲイリーの賞金がゼロになるだけで済まないんだよなあ、そっちは
小夜さんが、背負子の紐に腕を通した。
「……行こ。早めに行って、乗る場所、取っとく」
「ええ。お席は、早めに取っておくものですわ」
*
桟橋の手前に、衛兵の方々が、縄を一本張っていた。
縄のこちら側の待合所には、下町行きの便を待つ方々が、まばらに座っていた。縄の向こうの、白い石の桟橋の欠けた端に、銀の胸甲が一人。その先には、雲しかなかった。
桟橋の根もとの、積まれた木箱に、白い装甲が腰かけていた。スタロ様だった。装甲の光の線が、ひどく暗かった。
【コメント】スタロ
【コメント】寝てないな、あれ
【コメント】金ピカと、端と端
【コメント】一言も話してない
縄の前に、女の方がひとり、立っていた。
待合所の長椅子には座らずに、縄のすぐ手前に。上の方らしい、灰色の上着。胸の前で、布の包みをひとつ、両腕に抱えていた。
衛兵の方が、縄の内側から、女の方に何か言っていた。
「ご婦人。昼の鐘の前後は、ここは閉めます。待合所の中へ」
「……ここで、待ちます」
「ご家族が、組に?」
女の方は、少しのあいだ黙っていた。
「赤い袖を、巻いて出ていきました。巻き方も知らないで。……折り目も、ついたままで」
衛兵の方は、何も言えなくなったように、口を閉じた。
女の方は、包みを抱え直した。端から、畳んだ着物の袖がのぞいていた。
【コメント】あ
【コメント】折り目のついた袖
【コメント】あの子だ。木箱に座ってた、数合わせの
【コメント】昨日、箱抱えて艇にしがみついてた子
【コメント】母ちゃんか
【コメント】着替え持ってきてる
【コメント】戻ってきたら、着替えさせる気なんだ
【コメント】戻ってくる場所に、金ピカが立ってるのに
【コメント】分かってて来てるんだよ。ニュースで言ってたもん
【コメント】止めようがないだろ、こんなの
【コメント】俺ら、死んでも拠点で起きて、二度寝するだけなのにな
【コメント】あっちは、金ピカの前で死んだら、それっきり
【コメント】知ってるよ。知ってるけどさ
小夜さんは、待合所の窓際の長椅子に、背負子を下ろした。窓の硝子越しに、桟橋も、縄の前の背中も、まっすぐ見えた。
わたくしは、待合所の戸口に立って、日傘を開いた。
桟橋の端から、声が飛んできた。
「やあ、少年! 君も、待つのかね!」
スタロ様は、顔を上げなかった。
「……待つ」
「ハーッハッハ! 結構! 戻ってきた悪党どもは、私が片をつける! 君は、市民の皆さんを、縄の外へ――」
「俺が、先に捕まえる」
スターグリント様の笑い声が、途中で止まった。
「……そうかね。では、競争だな」
【コメント】競争
【コメント】捕まえる、と、片をつける
【コメント】片をつけるって、そういう意味だよな
【コメント】母ちゃんの目の前で言うな
スタロ様は、それきり何もおっしゃらなかった。
一度だけ、兜が、縄の前の女の方へ向いた。それから、待合所の戸口の、わたくしの日傘の方へ。
すぐに、空へ向き直った。
【コメント】今、お嬢の方、見た
【コメント】見て、やめた
【コメント】さした後から、ずっと話してないもんな
縄の前の女の方は、包みを抱いたまま、雲の方を見上げていた。
島々の向こうの塔で、大時計の針が、ゆっくりと、真上に近づいていた。




