第138話お席は、あちらでございますのね
連絡艇は、桟橋の先端に、横腹を寄せて止まった。
舷側の扉が開いて、乗組員の方が、鉄の帯を巻いた木箱を一つ、桟橋の板に下ろした。紺の制服の護衛の方々が、四人がかりでそれを囲む。二つ目の箱が、扉の縁に覗いた。
一つ目の箱の角が、板に触れた。
にらみ合いは、それで終わりだった。
五つの固まりが、五つの方角から、一斉に桟橋の先端へなだれ込んだ。紺の制服が、人波に呑まれて見えなくなる。乗組員の方々が、二つ目の箱を放り出して、待合所の方へ転がるように逃げていった。
「箱だ! 箱を押さえろ!」
「赤い袖が先に掴んだぞ!」
「艇だ、艇に積め!」
【コメント】始まった
【コメント】箱が板についた瞬間
【コメント】一秒も待たねえ
【コメント】護衛、消えた
【コメント】スタロ!
白い影が、人波を斜めに割った。
スタロ様は、踏みつけられかけた紺の制服の方を二人、襟首ごと引き上げて、待合所の方へ放った。三人目の腕を掴んで引きずり出す。その頭の上を、木箱が一つ、赤い袖から黒い手袋へ、黒い手袋から銀の留め金へと、殴り合いの手から手へ渡っていった。
「やめろ! 散れ! まだ間に合う!」
誰も、散らなかった。
箱を抱えた固まりから順に、浮遊艇の列へ雪崩れていった。運転士の方々が、押しのけられ、襟首を掴まれ、艇の中へ引きずり込まれていく。
「舵を握れ! 島の端までだ!」
「握らねえって言っただろうが!」
「なら、そこで見てろ!」
箱を取り損ねた組も、空いた艇に飛び乗った。追うつもりなのだ。
スタロ様が、一番目の艇の舷べりに片足をかけて、中の運転士の方を、腰ごと抱えて引き抜いた。桟橋へ放る。二番目の艇へ跳ぶ。
「降りろ! 全員、降りろ!」
艇が、ひとつ、またひとつと、桟橋から浮き上がっていく。舵を握っているのは、組の方々だった。艇は、慣れない手つきで、酔ったように傾きながら昇っていった。
わたくしは、日傘を開いた。
「スタロ様。三十秒、お待ちいたしますわ」
袖を掴んでいた小夜さんの指が、ぴくりと動いた。
「いち」
【コメント】数え始めた
【コメント】声に出してる
【コメント】スタロに聞かせてる
【コメント】やめろお嬢
【コメント】いや、これは約束どおりなんだよ……
「――お前ら、どけ!」
ゲイリー様が、柱の陰から飛び出した。
浮き上がりかけた三番目の艇の舷べりから、銀の留め金の殿方の足が一本はみ出していた。ゲイリー様は、その足首を両手で掴んで、毛皮の背中を反らせた。殿方が、艇から引っこ抜かれて、桟橋の板に背中から落ちた。ゲイリー様は、その上に馬乗りになった。
「一人! 一人は、俺のだ!」
「じゅう」
【コメント】ゲイリー!
【コメント】足首から引っこ抜いた
【コメント】確保の仕方が原始的
【コメント】一人は俺の(切実)
「じゅうご」
昇っていく艇の上で、連射が鳴りはじめた。箱を取った組と、取り損ねた組が、宙で撃ち合っていた。
その真ん中を、白い影が渡っていった。
二番目の艇の舷べりから、運転士の方を抱えて飛び降りる。落ちながら足場を蹴って、三番目の艇の腹の下へ。腹に沿って駆け上がって、甲板の縁から跳び込む。撃ち合いの銃声が、その背中を追いかけた。蹴ったばかりの光の足場が、消える間際に弾を受けて、砕けて散る。三番目の運転士の方を肩に担いだまま、白い影は、四番目の艇の船首へ、ほとんど水平に跳んだ。
【コメント】艇から艇へ
【コメント】撃ち合いのど真ん中
【コメント】運転士だけ全員回収する気だ
【コメント】担いだまま跳んでる
スタロ様が、五番目の艇から、白髪まじりの運転士の方を抱えて飛び降りた。
桟橋の板の上に、そっと下ろす。運転士の方は、膝をついたまま、帽子を押さえて空を見上げた。自分の艇が、首に青い布を巻いた殿方を乗せて、昇っていくところだった。
これで、運転士の方々は、皆、桟橋の上だった。
艇は、五つとも、もう空にあった。
「にじゅう」
スタロ様が、振り返った。
待合所の硝子の中で、荷を提げたご婦人方が身を寄せ合っていた。荷揚げ場の脇で、人足の方々が、木箱の陰に頭を抱えて伏せていた。わたくしの袖を掴んだ、小夜さんの指。
それから、スタロ様は、空を見上げた。
五つの艇が、ばらばらの高さで、ばらばらの方角へ傾きながら昇っていく。いちばん低い艇の舷べりから、赤い袖の、まだ折り目のついた布が、ひとつ覗いていた。
木箱に腰かけていた、あの方だった。鉄の帯の箱を、両腕で抱えていた。運ぶ係だと、おっしゃっていた方だ。艇の縁にしがみついて、桟橋を見下ろしていた。
「にじゅうご」
スタロ様の腕が、上がった。
指が、空をさした。
桟橋から離れていく、五つの艇の方を。
「……あっちだ」
声は、かすれていた。
「上がった艇だけだ。桟橋は、なしだ」
「承りましたわ。……皆様、お席に、お着きになりましたものね」
運転士の方は、まだ、空の自分の艇を見上げていた。
柔らかい目だった。
その目を、お借りした。
――傾きながら昇っていく、五つの艇の腹。舷べりにしがみついた、赤い袖。抱えられた、鉄の帯の箱。
白。
空が、割れた。
五つの艇が、ひとつの光の中に呑まれた。その光が、ひと呼吸遅れて、桟橋へ叩きつけるように降りてきた。待合所の硝子に、網の目の罅が一面に走る。桟橋の先の半分が、板ごと、杭ごと、雲の中へ剥がれ落ちていった。
連絡艇の乗り場の柵が、ゆっくりと傾いた。
横腹を寄せていた連絡艇が、誰も乗せないまま、桟橋の先端と一緒に、雲の下へ滑り落ちていった。
空から、光の粒が降ってきた。
雨のように、たくさん。
【コメント】――
【コメント】全部いった
【コメント】空で、五隻まとめて
【コメント】桟橋、半分ない
【コメント】桟橋はなしって言ったのに
【コメント】お嬢の「なし」の範囲、スタロと違う
【コメント】待合所、罅だらけだけど立ってる
【コメント】小夜ちゃん、無事
【コメント】連絡艇まで落ちた
【コメント】乗組員、逃げてたのが救い
【コメント】金も、箱ごと
【コメント】赤い袖の子……
【コメント】箱、抱えてたよな
光の粒が、わたくしの日傘の上で、さらさらと音を立てた。
桟橋の板の上で、ゲイリー様が、馬乗りになったまま、空を見上げていた。
それから、下敷きの殿方の襟を掴んで、顔を寄せた。
「おい。あの金、どこへ運ぶつもりだった」
「……島に、持って帰るはずだった。よその組が狙ってるって、紙が来て。先に押さえろって」
「よその組、ね」
ゲイリー様は、空いている方の手で、空を指した。さっきまで五つの艇が昇っていた空だった。
「お前らが、その『よその組』だよ。向こうから見りゃな」
下敷きの殿方は、しばらく口を開けていた。
何か言いかけて、何も言わなかった。
【コメント】ゲイリー、きれいにまとめた
【コメント】全員、全員にとっての「よその組」
【コメント】紙を書いたやつ、性格悪すぎる
【コメント】罷業の紙と同じ字のやつだろ、これ
ゲイリー様は、懐の手配書の束を引っ張り出して、一枚ずつめくった。
「……九つのうち、俺が一つ」
「まあ。お一人、確保なさいましたのね。おめでとうございます」
わたくしは、心からお祝いを申し上げた。
ゲイリー様は、手配書の束から、ゆっくりと顔を上げた。
「残りが、どこ行ったと思ってんだ」
「さあ?」
【コメント】さあ?
【コメント】お嬢の所持金だよ
【コメント】罷業の日にも本人から言われてたろ
【コメント】お嬢、配信中は所持金見ない人だから
【コメント】純度百パーセントのお祝い
【コメント】一番効くやつ
ゲイリー様は、手配書の束で顔を覆って、仰向けに倒れた。下敷きの銀の留め金の殿方が、ぐえ、と鳴った。
*
柱の光の板が、ちかちかと瞬いていた。
いちばん下の一行が、白から赤に変わった。
――連絡艇 下町行き 運休
小夜さんが、わたくしの袖を、離した。
光の板を見上げて、それから、わたくしの顔を見た。何か、おっしゃるのかと思った。
小夜さんは、何もおっしゃらなかった。首飾りを、握っていた。
【コメント】一便、なくなった
【コメント】お嬢が自分で消した
【コメント】乗らないけど、あるって分かってたかったのに
【コメント】小夜ちゃん、何も言わないのが一番きつい
スタロ様は、空をさしたままの腕を、ゆっくりと下ろした。
下ろした手が、拳になった。
【コメント】スタロ……
【コメント】罷業の日と、同じ乗り場なんだよな
【コメント】あのときは、空で運転士のおっさん受け止めて「間に合った」って言ってた
【コメント】三人だけだ、って
【コメント】今日は、運転士は全員自分の手で降ろした
【コメント】間に合わせた上で、さした
【コメント】数合わせの子が乗ってるの、見てからな
【コメント】見分けるって言ったから、見分けた上でさした
【コメント】それが一番きつい
【コメント】明日には戻るって
【コメント】戻ってきても、さした事実は戻らないんだよ
わたくしは、日傘を傾けて、空を見上げた。
光の粒は、もう、ひとつも残っていなかった。




