第137話お二組様が、まだでございますわね
鈴村さんは、朝のうちに役所の島へ発った。
「今日も、扉の向こうで一日です。お昼は、向こうでいただきます」
宿の戸口でそれだけ言って、襟を正して、浮遊艇の乗り場の方へ歩いていった。
その背中が角を曲がるのを待って、小夜さんが、前掛けの紐を結び直した。
「わたし、桟橋、見てくる」
「お使いですの?」
「ううん。……下に帰る便、まだ出てるか、見るだけ」
【コメント】おはよう
【コメント】小夜ちゃん、今日はお使いじゃないのか
【コメント】帰る便の確認
【コメント】ゆうべも一人で見に行ってたよな
【コメント】あの切り抜きの件、お嬢は知らないんだっけ
【コメント】寝てたからな
【コメント】知らないほうがいい、たぶん
「では、わたくしも。たまたま、同じ方角へ」
「……それ、前にも聞いた」
*
桟橋は、昨日よりも混んでいた。
柱の光の板には、浮遊艇の便がずらりと並び、行き先の横に、赤い「運休」の文字がほとんど隙間なく灯っていた。いちばん下に一行だけ、白い字が残っている。
――連絡艇 下町より 昼の鐘着
――連絡艇 下町行き 昼の鐘ののち 折り返し一便のみ
小夜さんは、その一行を、しばらく見上げていた。
「……一便、あるんだ」
「お乗りになりますの?」
「乗らないよ。鈴村さん、まだ終わってないし」
小夜さんは、首飾りに指を添えた。
「乗れるって、分かってたいだけ」
【コメント】乗らないけど、確かめたい
【コメント】わかる
【コメント】帰り道があるって分かってたら、もう少し頑張れるやつ
【コメント】一便だけってのが不穏すぎる
待合所の硝子の前で、荷を提げたご婦人が二人、こちらを見て、それから顔を寄せ合った。
「……ほら、あの子。大通りの板に、書かれてた」
「ああ、銀行の」
小夜さんの指が、首飾りの上で止まった。
わたくしが振り向いたときには、ご婦人方は、もう反対の方を向いて、硝子の待合所の中へ入っていくところだった。
「何のお話かしら」
「……知らない」
【コメント】聞こえてた
【コメント】板の件、まだ言われてる
【コメント】金払えば何でも流す板なのに
【コメント】ゆうべの切り抜きまで回ったら、もっとひどくなるぞ
*
桟橋の真ん中に、スタロ様がいた。
赤い袖の固まりの前に立って、何か話しかけていた。返事はなかった。スタロ様は、黒い手袋の固まりの前へ移った。そこでも、誰もスタロ様を見なかった。銀の留め金の固まりの前でも、同じだった。
「朝から、ずっとあれだ」
柱の陰で、ゲイリー様が言った。手配書の束が、昨日より分厚くなっていた。
「一人ずつ顔見て、名前聞いて回ってる。誰も答えねえのにな」
「まあ。熱心でいらっしゃいますのね」
「見分けたいんだろ。誰が頭で、誰が下っ端で、誰が数合わせで連れてこられただけか」
ゲイリー様は、手配書をめくった。
「……七つが、九つに増えた。全部、でけえ札だ。金ピカもまだ来てねえ。今日こそ、俺のもんだ」
赤い袖の固まりのいちばん端で、ひとりだけ、木箱に腰かけている方がいた。袖の赤い布が、まだ新しくて、折り目がついたままだった。
スタロ様は、その方の前で、膝をついた。
何を話したのかは、聞こえなかった。
ただ、その方が、ほかの誰とも違って、スタロ様の兜を見上げて、何か短く答えた。首を、横に振った。それから、自分の袖の赤い布を、指でつまんで見せた。
スタロ様は、しばらく動かなかった。
やがて、その方の肩に、一度だけ手を置いて、立ち上がった。
「あれは、数合わせだな」
ゲイリー様が、手配書から目を上げずに言った。
「手配書に顔がねえ。袖の布も、きのう巻いたばっかだ。来いって言われて、来ただけだろ」
【コメント】スタロ、見分けようとしてる
【コメント】次は俺が見分けるって言ってたもんな
【コメント】一人だけ答えた
【コメント】折り目ついたままの袖、つらい
【コメント】ゲイリー、フラグ立てるな
【コメント】今日こそ俺のもんだ(今日も持ってかれる)
スタロ様が、こちらに気づいて、まっすぐ歩いてきた。
「あの赤い袖の若いのが、話してくれた」
スタロ様は、桟橋の固まりの方へ、兜を向けたまま言った。
「箱を運ぶ係で、連れてこられたんだと。……昼の鐘の連絡艇で、下の出張所の金が、銀行の島の本店へ上がってくる。よその組がそれを狙ってる。先に押さえろ。そういう紙が、組に来たらしい」
ゲイリー様が、手配書をめくる手を止めた。
待合所の脇に、揃いの紺の制服の方が四人、立っていた。胸に、銀行の島の紋が縫いつけてあった。
「……銀行の護衛か。本店が閉まって、下の金まで掻き集めてんだな」
「卓のときと、同じだ」
スタロ様の声が、低くなった。
「たぶん、全部の組に、同じ紙が来てる」
「だから、誰も動かねえのか」
ゲイリー様は、桟橋を顎で指した。
「先に動いた組が、残り全部に囲まれる。そのうえ、金はまだ着いてねえ。……鐘を待ってんだよ、どいつもこいつも」
【コメント】そういうことか
【コメント】港の木箱の上層版だ
【コメント】両方に同じ紙、ってやつ
【コメント】睨み合いじゃなくて、待ちだったのか
【コメント】見ないようにしてたの、そういう
【コメント】下の出張所って、お嬢が前に吹っ飛ばした両替所?
【コメント】それ
「瑠璃華。撃つなよ」
「ごきげんよう、スタロ様」
「今日は、始まる前に俺が止める。金が着く前に、あいつらを散らす。だから、撃つな」
「ええ。始まる前には、撃ちませんわ」
スタロ様は、少し黙った。
「……始まっても、撃つな」
「まあ」
わたくしは、日傘を傾けて、にっこり笑った。
スタロ様は、もう一度黙って、それから、組の固まりの方へ戻っていった。
【コメント】「まあ」で返した
【コメント】約束しなかった
【コメント】スタロ、言い直したの偉い
【コメント】偉いけど通じてない
*
浮遊艇の乗り場では、運転士の方々が、艇の前に腕を組んで並んでいた。
白髪まじりの運転士の方に、わたくしは声をおかけした。
「昨日のご注文、三件でしたわね」
「……ああ。赤い袖と、黒い手袋と、銀の留め金だ」
運転士の方は、帽子のつばの下から、わたくしを見た。
「今朝、もう二件来た。肩に白い布を巻いた連中と、首に青い布の連中。どっちも、知らねえ島の組だ。刻限は、同じ昼の鐘」
「五件、でございますのね」
わたくしは、桟橋を見渡した。
赤い袖。黒い手袋。銀の留め金。
「三組様。……お二組様が、まだでございますわね」
運転士の方が、わたくしの顔を、長いこと見ていた。
【コメント】数えてる
【コメント】お嬢、客数えてる
【コメント】昨日の「お揃い」の続きだこれ
【コメント】運転士のおっさん、ドン引きしてる
【コメント】おっさんがお嬢を見る目が、組を見る目と同じになってる
*
待合所の硝子の壁の上に、大きな時計があった。
長い針が、真上の少し手前で、かちりと動いた。
小夜さんが、わたくしの袖を、指先で引いた。
「瑠璃華」
「はい」
「……今日は、わたしのために、何もしないでね」
一昨日の大通りの角のことを、おっしゃっているのだと分かった。
「ええ。今日は、小夜さんのためではございませんわ」
小夜さんは、袖を離さないまま、わたくしの顔を見上げた。
「……それ、安心していいやつ?」
【コメント】よくない
【コメント】よくないです
【コメント】全然よくない
【コメント】小夜ちゃんの勘が正しい
桟橋の入口が、ざわりと割れた。
肩に白い布を巻いた殿方が六人。少し遅れて、首に青い布を巻いた殿方が五人。どちらも、ほかの固まりの方を見ないようにして、桟橋の端と端に分かれて立った。
わたくしは、日傘の柄を、軽く握り直した。
「――皆様、お揃いですわね」
【コメント】来た
【コメント】五組
【コメント】揃っちゃった
【コメント】スタロ!!
【コメント】時計!
スタロ様が、桟橋の真ん中で振り返った。
ゲイリー様が、手配書の束を懐に押し込んだ。
小夜さんの指が、わたくしの袖を、強く掴んだ。
時計の長い針が、真上で止まった。
島の塔の上から、鐘が、ひとつ鳴った。
五つの固まりが、同時に、桟橋の先の空を向いた。
雲の下から、連絡艇の白い腹が、ゆっくりと昇ってきた。




