第134話同じ方角へ、お散歩に参るだけですの
小夜さんは、宿に戻るまで、一度も振り返らなかった。
わたくしも、一度も呼び止めなかった。
戸口をくぐると、小夜さんはそのまま階段を上がって、自分のお部屋に入った。戸が、静かに閉まった。
【コメント】部屋に入っちゃった
【コメント】そりゃそうなる
【コメント】お嬢、どうすんの
【コメント】ここで追いかけないのは、さすがに冷たくない?
日が落ちるまで、小夜さんの戸は、一度も開かなかった。
わたくしは、食堂の奥の帳場へ向かった。
「ご主人。お茶の道具を、一式お借りできますかしら」
宿のご主人は、拭いていたカップを、ゆっくりと置いた。
それから、わたくしの顔を見た。大通りの角の方を、窓越しに見た。もう一度、わたくしの顔を見た。
「……割らないでくださいよ」
「まあ。わたくし、カップを割ったことなど、一度もございませんわ」
「カップは、ね」
【コメント】カップは、ね
【コメント】ご主人、言うようになった
*
宿の屋上は、白い石の平らな床だった。
洗い終えた白いシーツが、何枚も風にはためいている。その向こうに、上層の夜が広がっていた。塔の窓という窓が青白く灯り、島と島のあいだを、浮遊艇の小さな灯りが渡っていく。ずっと遠くの区画だけ、赤や紫や緑の光が、滲むように瞬いていた。
【コメント】屋上だ
【コメント】夜景きれい
【コメント】あの色の濃いとこ、ネオン街?
【コメント】スタロが馴染むって噂の
【コメント】お茶の準備してる
【コメント】お嬢、何する気
わたくしは、物干しの柱の陰に小さな卓を据えて、カップを二つ並べた。
ポットに湯を注ぐ。茶葉が開くまで、少し待つ。
それから、配信の硝子の目の方へ向き直った。
「皆様。本日の配信は、ここまでにいたしますわ」
【コメント】え
【コメント】切るの!?
【コメント】今から!?
【コメント】お茶淹れたとこなのに
【コメント】あ、そういうことか
【コメント】小夜ちゃん呼ぶんだ
【コメント】……掲示板の連中に見せないため、か
【コメント】お嬢、たまにちゃんとしてるの何なの
【コメント】おやすみ、お嬢
【コメント】小夜ちゃんによろしく
「お茶会には、お招きした方しかお入りいただけませんの。ごきげんよう」
硝子の目の灯りが、ふっと消えた。
*
小夜さんのお部屋の戸を、二度叩いた。
「お茶が入りましたわ。屋上に」
返事はなかった。
わたくしは、それ以上は何も言わずに、屋上へ戻った。カップに、お茶を注ぐ。湯気が、夜風に流れていく。
二杯目を注ぎ終えるころ、階段の方で、足音がした。
小夜さんは、屋上の入口に立って、卓と、カップと、わたくしを順番に見た。
「……配信、切ったの」
「ええ」
「なんで」
「お茶会ですもの。立ち見の方は、ご遠慮いただきましたの」
小夜さんは、少しのあいだ黙っていた。
それから、卓の向かいの椅子に座った。カップを両手で包む。
「……お茶、どこで借りたの」
「ご主人に。とても嫌そうなお顔で、貸してくださいましたわ」
「だろうね」
小夜さんの口の端が、ほんの少しだけ動いた。
笑った、と言うには、小さすぎた。
*
しばらく、二人とも、お茶を飲んでいた。
遠くの区画の色とりどりの光が、瞬いては消えて、また瞬いた。浮遊艇の灯りが、ひとつ、島の影に隠れた。
「瑠璃華さ」
小夜さんが、カップを見たまま言った。
「今日の、あれ。……わたしのため、だったんだよね」
「ええ」
「うん。知ってる」
小夜さんは、それ以上、何も続けなかった。
わたくしも、続けなかった。小夜さんが知っていらっしゃるなら、それで十分だった。
「……みんな、道、あけてくれたね」
「皆様、礼儀正しくなられましたわ」
小夜さんが、小さく息を吐いた。今度は、さっきより少しだけ、笑い声に近かった。
「そういうとこ」
「どういうところですの?」
「そういうとこだよ」
小夜さんは、お茶をひと口飲んだ。
それから、遠くの光の方へ、目を向けた。
「……下に、帰りたいな」
「まあ。上の街は、お気に召しませんの?」
「きれいだよ。灯りも、ずっとついてるし。……でも、店、ずっと閉めっぱなしだし。棚、半分空っぽのまま来ちゃったし」
小夜さんの指が、首もとの首飾りに触れた。
磨いた石が、屋上の灯りを受けて、小さく光った。
「おばあちゃんの島、こんなに近いのに。……下にいたときより、遠い気がする」
わたくしは、何と申し上げればよいのか、少し考えた。
考えて、結局、思ったことをそのまま申し上げた。
「鈴村さんのご用が済みましたら、すぐに帰れますわ。それまでは、わたくしがおりますもの」
小夜さんは、わたくしの顔を見た。
それから、こくりと頷いた。
「……うん」
*
階段の方で、また足音がした。
「ああ、こちらでしたか」
鈴村さんだった。役所帰りの、襟のついた紺の上着のままだった。片手に、書類の束を抱えている。
卓の上のカップを見て、穏やかに目を細めた。
「お茶会でしたか。お邪魔をいたしました」
「鈴村さん。お帰りなさいまし」
「ただいま戻りました。……実は、少しお知らせが」
鈴村さんは、書類の束を、もう片方の腕に抱え直した。
「聞き取りが、もうしばらく延びることになりまして。今日の大通りの件も、役所の方々のお耳に入ったようで。……代表として、お話ししなければならないことが、増えてしまいました」
小夜さんが、カップを置いた。
「……まあ。それは、ご苦労さまですわ」
「いえ。これも、代表の務めですから」
鈴村さんは、小夜さんの方へ向き直った。
「小夜さん。明日は、宿でゆっくりなさってください。お使いは、私の方で」
「やだ」
小夜さんは、顔を上げた。
「お使い、行く。……宿にいたら、隠れてるみたいで、やだ」
鈴村さんは、少しだけ驚いたように、小夜さんを見た。
それから、困ったように笑った。
「そうですか。……では、桟橋の荷受けを、お願いできますか。下からの荷が、明日の昼に着く予定でして。受け取りの判子を押していただくだけです」
「うん。行く」
「ありがとうございます。くれぐれも、気をつけて」
鈴村さんは、もう一度、卓の上のカップに目をやった。
「冷めないうちに。……それでは、おやすみなさい」
足音が、階段を下りていった。
*
小夜さんは、カップの底に残ったお茶を、しばらく揺らしていた。
「……瑠璃華。明日、ついてこなくていいよ」
「ついてまいりませんわ」
わたくしは、空になったカップに、新しいお茶を注いだ。
「わたくしは、桟橋の方角へ、お散歩に参るだけですの。たまたま、同じ方角へ」
小夜さんが、こちらを見た。
長いこと、見ていた。
「……それ、ついてくるって言うんだよ」
「まあ。お嬢様は、追いかけたりいたしませんわ」
「知ってる。……追いかけないで、隣にいるんだよね」
小夜さんは、新しいお茶を、ひと口飲んだ。
それから、ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。
遠くの区画の光が、また、色を変えた。




