第127話ただいま、戻りましたわ
天井に、見覚えのある染みがあった。
雨漏りの跡のような、小さな茶色い輪。宿のお部屋の、寝台の真上の染みだ。今朝、わたくしはこれを見上げてから起き上がった。
つまり、ここは、ゆうべから市場の島で借りているお部屋だった。三番通りの端で消し飛んだ宿屋とは、別の通りの宿だ。
「……まあ」
指を持ち上げてみる。
銀の輪が、ちゃんとそこにあった。花びらの彫り込みが、窓からの光を受けて、細かく光った。
【コメント】起きた!
【コメント】おかえり
【コメント】宿の部屋だ
【コメント】画面ついた!
【コメント】思ったより早かった
【コメント】指輪、ある
【コメント】落ちても持ち物はそのままなんだな
【コメント】賞金首じゃないからな
【コメント】頭の上、札なし。いつもどおり
わたくしは、寝台の上で身を起こした。
ドレスにも、日傘にも、焦げ跡ひとつない。喉もとまで泡に包まれていた体も、何事もなかったように軽かった。
【コメント】で、お嬢
【コメント】自分で自分を吹っ飛ばした感想は?
【コメント】聞き方
【コメント】知りたいだろ
わたくしは、寝台の脇に立って、配信の硝子の目の方へ向き直った。
指輪の花びらを、指の腹でなぞる。
「皆様、ただいま戻りましたわ。……とても、よく咲きましたわね」
【コメント】感想、言った
【コメント】聞こえてたのか?
【コメント】部屋だと、たまに拾うんだよな
【コメント】自分ごと咲いたんだが
【コメント】反省の色、ゼロ
【コメント】反省するところだと思ってないんだよ
【コメント】いつものお嬢で安心した
【コメント】安心するな
*
食堂へ降りると、壁の映像の板の前に、人だかりができていた。
『――繰り返します! 英雄スターグリント、十年の宿敵ドクター・オブシディアンを、ついに撃破! 市場の島は、元の高さを取り戻しました! なお英雄は、宿敵の復活に備え、現場に留まる構えです!』
板の中で、瓦礫の上に腰を下ろしたスターグリント様が、硝子の目に向かって親指を立てていた。
マントは、どこにもなかった。
【コメント】金ピカ、まだ座ってる
【コメント】ニュース、全部金ピカの手柄になってる
【コメント】勇敢な市民の「ゆ」の字もない
【コメント】撃ったのお嬢だぞ
【コメント】いいんだよ、お嬢は気にしない
【コメント】たぶん本当に気にしてない
「お戻りでしたか」
穏やかな声がした。
人だかりから少し離れた卓で、鈴村さんが、カップを手にしていた。
「今日の聞き取りは、昼で中断になりましてね。島がひとつ傾いたとなれば、役所の方々も、それどころではないようで。運転士さんの艇で、こちらへ」
「まあ。お騒がせいたしましたわ」
「ご無事で、何よりです」
鈴村さんは、カップを置いて、わたくしを見上げた。
その目が、ほんの一瞬だけ、わたくしの指に落ちた。
それから、いつもの、穏やかな笑みに戻った。
「中継で、拝見しておりました。見事なものでした」
「ありがとうございます。わたくし、少々、張り切りすぎてしまいましたかしら」
「さあ。……島は、浮いておりますから」
鈴村さんは、それ以上、何も言わなかった。
カップに、新しいお茶を注いでいた。
【コメント】鈴村さん、いつも落ち着いてるな
【コメント】島は浮いてるから(全肯定)
【コメント】この人が一番お嬢に甘い
【コメント】下町の代表、大変だな
*
宿の戸が、勢いよく開いた。
「――瑠璃華っ!」
小夜さんだった。
丁子屋の袋を二つ、胸に抱えたまま、息を切らしていた。その後ろから、スタロ様が、のっそりと入ってきた。白い装甲が、まだ煤で汚れていた。
【コメント】小夜ちゃん!
【コメント】迎えに来た
【コメント】走ってきたな、これ
【コメント】怒る?
【コメント】顔、怒ってる
小夜さんは、卓の鈴村さんに小さく会釈だけして、まっすぐわたくしの前まで来て、止まった。
何か言おうとして、口を開けて、閉じた。もう一度、開けた。
「……自分ごと、吹き飛ばさないで」
「まあ。わたくし、ちゃんと、ここに戻ってまいりましたわよ」
「そういうことじゃない」
小夜さんの声が、少しだけ、震えていた。
「瑠璃華が立ってたとこ、ほかと、何にも変わらなかった。瓦礫だけで。……見ても、どこだったか、分かんなかった」
わたくしは、少し考えた。
それから、日傘を卓に立てかけて、小夜さんの抱えている袋に、そっと手を添えた。
「丁子屋さんの品は、ご無事でしたのね」
「……無事だよ。ずっと抱えてたもん」
「でしたら、今日のお使いは、お約束どおりですわ」
小夜さんは、わたくしの顔を、しばらく見ていた。
それから、深く、深く、息を吐いた。
「……もう。ほんとに、もう」
【コメント】小夜ちゃん……
【コメント】お使いの心配で返された
【コメント】話、噛み合ってない
【コメント】噛み合ってないのに、なんか収まった
【コメント】小夜ちゃんがいちばん大人
スタロ様は、壁にもたれていた。
いつものように。けれど、腕は組んでいなかった。わたくしの指を、じっと見ていた。
「それ」
「指輪、ですの?」
「外せるのか」
「外せますわよ。ほら」
わたくしは、指輪を根もとから少しだけ浮かせて、また戻した。
「外しとけ」
「まあ。殿方からいただいたものを、すぐに外すなんて」
「そういう話じゃない」
スタロ様は、何か続けようとして、やめた。
代わりに、映像の板の方を、顎で指した。瓦礫の上で、スターグリント様が、まだ硝子の目に何か喋っていた。
「……次は、撃つ前に聞くからな。何が、どこまで飛ぶのか」
「まあ。三十秒のあいだに、ですの?」
「三十秒のあいだに、だ」
【コメント】スタロ、真面目
【コメント】三十秒で質問タイム追加
【コメント】忙しすぎる三十秒
【コメント】お嬢、絶対答えないぞ
【コメント】答えても「よく咲きますわ」だぞ
わたくしは、にっこりと微笑んだ。
「承知いたしましたわ。お答えできることでしたら、お答えいたします」
スタロ様は、何も言わなかった。
兜の奥で、深く、ため息をついたような気がした。




