第12話それ、恋愛相談の話じゃないの?
六つの鐘が鳴り終わるより先に、わたくしは雑貨屋の前に立っていた。
坂の上の空が、まだ薄青い。鉢植えの葉に夜露が残っていて、軒先の日よけの布が、朝の風にゆっくりと膨らんでいる。
扉の鈴が鳴って、小夜さんが出てきた。背中に、大きな背負子を担いでいる。空の籠が三つ、紐でしっかりと括りつけてあった。
「……本当に来た」
「お約束しましたもの」
「来ないかもって、ちょっと期待してた」
「まあ。わたくし、約束は守る女でしてよ」
小夜さんは何か言いたげな顔をしたが、結局何も言わずに、店の扉に鍵をかけた。
掛け札を「本日休業」に裏返す。その手つきに、迷いはなかった。
【コメント】朝配信珍しい
【コメント】おはようございます
【コメント】小夜ちゃんいる
【コメント】背負子でかくない?
【コメント】お嬢は何も持たないのか
坂を下りきり、角を曲がる。
鈴村さんの屋台は、まだ暖簾を下ろしていた。角の家並みは、何事もなかったかのように元の姿で並んでいる。乾物屋の雨戸も、煙草屋の軒先も、長屋の板塀も。
小夜さんはそれらを横目で眺めて、小さく溜め息をついた。
「ほんと、何だったんだろうね。一昨日のあれ」
わたくしは答えなかった。答えるまでもないことだと思ったからだ。
悪い方々がいて、屋台を守った。それだけのことだ。
港沿いの道を、北へ向かう。
倉庫街を抜け、錆びた鉄の橋を渡る。橋の下を、煤で黒ずんだ運河がゆっくりと流れていた。空気の匂いが変わっていく。潮の匂いが薄れ、代わりに油と、焦げた金属と、湿った石炭の匂いが混じりはじめる。
行く手の空に、煙突が何本も立っていた。どれも、朝から灰色の煙を吐いている。
「歩くの、遅くない?」
橋の中ほどで、小夜さんが振り返った。
わたくしは、ちょうど三歩ぶん後ろにいた。
「優雅さというのは、少々時間のかかるものですの」
「朝の仕入れは時間との勝負なんだけど」
「では、小夜さんが少しだけ、ゆっくり歩いてくださればよろしいのではなくて?」
「なんでわたしが合わせる側なの」
そう言いながら、小夜さんは歩幅を半分に縮めた。
背負子を揺すり上げ、わたくしの横に並ぶ。
【コメント】合わせてあげてる
【コメント】優しい
【コメント】押しに弱い
【コメント】ツッコミながら全部言うこと聞いてるの好き
しばらく、黙って歩いた。
運河沿いの道は、朝の荷車でそれなりに混んでいた。木箱を積んだ台車、樽を転がす人夫、眠たげな顔で煙草を咥えた職人たち。誰もがわたくしを見ると、一瞬だけ足を緩め、それから道の端へ寄った。
小夜さんが、横目でわたくしを見た。
「ねえ。前から聞きたかったんだけど」
「なんですの」
「なんで、そういう喋り方なの。お嬢様っぽいの」
「お嬢様ですもの」
「そうじゃなくて。なんでお嬢様なのかって話」
わたくしは、少し考えた。
どう答えれば、正確に伝わるだろう。
「尊敬するお方がいらっしゃいますの。そのお方の教えを、実践しているのですわ」
「教え?」
「ええ。たとえば、欲しいものほど、自ら追いかけてはいけない。人を動かしてこそ、お嬢様。人との縁こそ、最大の財産」
指を折りながら、ひとつずつ唱える。
何百回と読み返した言葉だ。口にするたびに、背筋がすっと伸びる気がした。
小夜さんは、しばらく黙っていた。
それから、首を傾げた。
「……それ、恋愛相談の話じゃないの?」
わたくしは足を止めた。
【コメント】!?
【コメント】核心を突いた
【コメント】小夜ちゃん鋭い
【コメント】いやでも確かに恋愛の話っぽい
【コメント】追いかけるな、って完全に男の話では
「ほら、追いかけちゃ駄目、とかさ。うちに来るお客さんで、そういう話する人いるよ。好きな人に振り向いてもらうには、って」
「……確かに、そのお方は、殿方についてのご相談にお答えになっていましたわ」
「やっぱり」
「けれど」
わたくしは、日傘の柄を握り直した。
「教えというものは、どんな場面にも通じるものですわ。殿方を追いかけない者は、悪党も追いかけない。人を動かせる者は、街も動かせる。本物の言葉というのは、そういうものですの」
小夜さんは、じっとわたくしの顔を見ていた。
呆れた顔になるだろう、と思った。けれど、小夜さんはただ、ふうん、と小さく鼻を鳴らしただけだった。
「……変なの。でも、まあ。好きな人の言葉を大事にしてるのは、分かる」
「好きな人ではなく、尊敬するお方ですわ」
「同じだよ、そういうのは」
小夜さんは、また歩き出した。
半分の歩幅で。
わたくしは、少しだけ遅れてその背中を追った。
追いかけたのではない。並んで歩くために、ほんの少し足を速めただけだ。
運河が大きく曲がるあたりで、道の両側に鉄柵が現れた。柵の向こうに、赤煉瓦の工場が肩を寄せ合っている。どこかで、金槌を打つ音が規則正しく響いていた。
工業区だ。
「ここからは、あんまりきょろきょろしないでね」
小夜さんが、声を落とした。
「このへんの人たち、よそ者には厳しいから。特に、目立つ人には」
「まあ。わたくし、目立ちますかしら」
「自覚ないの?」
【コメント】自覚ないの?
【コメント】自覚ないの?
【コメント】自覚ないの?
【コメント】コメ欄全員一致
小夜さんは、慣れた足取りで路地を折れていく。
配達で、何度も通っている道なのだろう。迷う素振りがない。
「最近、よく来るんだよね、こっちの方」
「鈴村さんのご用で、ですの?」
「うん。前は坂の下で全部揃ってたんだけど、ここのところ、鈴村さんがあれこれ遠くの仕入れを頼んでくるの。こっちの炭がいいとか、向こうの塩の方が合うとか。凝り性なんだよね、あの人。……まあ、そのぶん配達代もらえるから、うちとしては助かってるんだけど」
小夜さんは、そう言って少し笑った。
鈴村さんらしい、とわたくしも思った。屋台の中の、あの几帳面に並べられた串と、磨き上げられた焼き台を思い出す。
路地の突き当たりに、大きな煉瓦の倉庫が見えてきた。
正面の鉄の扉の上に、「炭・石炭 大黒屋」と書かれた看板がかかっている。
「あそこ。いつもの問屋さん」
小夜さんが、背負子の紐を締め直した。
それから、ふと足を止めた。
鉄の扉が、閉まっていた。
朝のこの時刻なら、とうに開いている時間のはずだ、と小夜さんは小声で言った。
扉の向こうから、声が聞こえた。
怒鳴り声だった。ひとりではない。何かが倒れる音。誰かの、押し殺したような悲鳴。
小夜さんが、わたくしの袖を掴んだ。
「……ねえ。今日は、ちょっと様子を見てから――」
わたくしは、もう微笑んでいた。
【コメント】あっ
【コメント】あっ(察し)
【コメント】小夜ちゃん逃げて
【コメント】問屋さんごと吹き飛ばさないでねって言われてたよね?




