第116話閑話 取り返さなくていい
☆ スターライトロード視点 ☆
右腕の痺れが、まだ抜けなかった。
丁子屋の土間で、痺れ棒を二本受けた。肩と、腕。指は動く。握ると、肘の奥で、まだ小さく火花が跳ねる気がする。
宿の部屋で、しばらく、その手を見ていた。
あの店で、俺は、指をささなかった。
さす代わりに、自分で押さえた。押さえきれなかった。三十が来て、店の正面が消えた。
机の上に、橙色の果物がひとつ、載っていた。三番通りで買って、丁子屋の帳場の端に置いたまま、帰りがけに拾ってきたやつだ。
それを掴んで、窓から跳んだ。
*
夜の三番通りは、半分だけ眠っていた。
まっすぐな通りだ。片方の端は、市場の真ん中の塔へ。もう片方の端は、島の縁で終わって、その先には隣の島への渡り橋が一本架かっているだけだ。低い手すりの向こうは、雲の夜だった。
両側の店は、どこも戸を下ろして、軒先の硝子の玉だけが青白く灯っている。店先には、明日の朝に並べる品が、布をかけて積んであった。上の店は、夜でも品をしまわないらしい。下町なら、朝には半分なくなっている。
両替所の数軒先。屋台一台ぶんの四角い日焼けの跡の上で、果物屋のおっちゃんが、敷き布の上の籠に、布をかけているところだった。
「おう。さっきの、白い兄ちゃん」
何か言おうとして、言葉が出てこなかった。代わりに、果物を差し出した。
「……これ」
「なんだ、食わなかったのか」
「屋台、俺が建てる。……建てさせてくれ」
おっちゃんは、目を丸くして、それから笑った。
「いいって、いいって。金ピカの旦那が、悪党を片付けてくれたんだ。屋台のひとつくらい、安いもんさ」
本気で、そう思っている顔だった。
果物は、受け取ってもらえなかった。敷き布の端に置いた。
*
ぼん、と、鈍い音がした。
塔の方からだった。通りの屋根すれすれを、灯りを消した小さな浮遊艇が、音もなく滑ってくる。甲板に、三人。舵の前に一人。船首と船尾に、太い銃身の網の銃を抱えたのが一人ずつ。
銃口から、青白く光る糸の網が開いた。網は、いちばん奥の店先の品の山にかぶさって、山ごとすくい上げた。網の端が、艇の腹に吸いつく。品が、宙に吊り上がる。
ぼん。次の店先。ぼん。ぼん。
四軒ぶんの品を腹に吊るして、艇は、島の縁の方へ――こちらへ、下ってくる。次は、おっちゃんの敷き布だった。
「……網の銃か」
足場を蹴った。
一枚目で軒の高さ。二枚目で屋根の上。三枚目で、艇と同じ高さに並んだ。
船尾の男が、こちらに網の銃を向けた。
ぼん。
青白い網が、目の前で花のように開いた。広い。横へ跳んでも、端が届く。
下へ抜けた。足場を、足もとではなく頭の上に出して、両手で突き放す。体が、網の下をくぐって落ちる。網は、さっきまで俺のいた宙を空振りして、そのまま通りへ落ちていった。
落ちながら、足場をもう一枚。軒先の硝子の玉をかすめて、また跳ね上がる。
舵の男が、腰の光線銃を抜いた。
青い筋。足場を斜めに立てて、弾く。二本目。弾く。三本目を弾いたところで、板の方が先に消えた。消えかけた光の欠片が、灯りの中できらきらと散る。その中を、まっすぐ上へ。
艇の真上に出た。
船首と船尾の網の銃が、両方、こちらを向いた。挟まれた。
二つの網が、同時に開いた。
開ききる前に、真下へ落ちた。足場を出さずに、ただ落ちた。頭の上で、二つの網がぶつかり合って、絡まって、一つの塊になって甲板に落ちた。船首の男と船尾の男が、自分たちの網に足を取られて、もつれて転んだ。
甲板の手前で、足場を一枚。蹴って、船尾へ。
左手で、船尾の男の網の銃を掴んだ。もぎ取って、通りへ放る。男が、網の塊の上に尻餅をついた。
右手で、舵の男の襟を――
右手が、上がらなかった。
肘の奥で、火花が跳ねた。指が、半分しか閉じない。
その一瞬で、船首の男が、網の塊から這い出して、銃口を真下に向けていた。
ぼん。
網が、おっちゃんの敷き布に落ちた。籠ごと。籠に覆いかぶさった、おっちゃんごと。
網の端が艇の腹に吸いついて、おっちゃんの体が、籠と一緒に宙に浮いた。
艇が、舵を切った。通りの突き当たりへ。島の縁の、その先へ。
*
艇の腹には、品の網が四つ。おっちゃんの網が、一つ。
全部は、無理だ。
船尾の縁から、身を投げた。
落ちながら、艇の腹の下に足場を出す。おっちゃんの網の、真下。蹴って、また出す。出しては蹴って、艇と同じ速さで、網の真下を走った。頭の上に、艇の腹と、網の吸い口。足もとを、島の縁の手すりが過ぎていった。その先は、雲だ。
吸い口に、左手を突っ込んだ。引き剥がす。熱い。指が焼ける。剥がれない。
舷べりから、船首の男が身を乗り出した。銃口が、こちらを向く。
吸い口を、真上に蹴り上げた。
網が外れて、おっちゃんと籠が、足場の上に落ちてきた。受け止めた瞬間、足場が二人ぶんの重さで砕けた。落ちる。頭の上で、ぼん、と音がした。網は、さっきまで俺の頭があった所を、空へ抜けていった。
落ちながら次の足場を出して、おっちゃんを、左腕で抱え直した。籠は、おっちゃんが離さなかった。
次の足場を出す。乗り移る。また出す。手すりの方へ、雲の上を、一枚ずつ。振り返らなかった。振り返れば、艇の腹にまだ吊られている四つの網が見えるのが、分かっていた。
手すりを越えて、通りの石畳に転がり込んだ。
艇は、灯りを消したまま、雲の向こうへ小さくなっていった。
*
「……すまない」
敷き布の上に座り込んだおっちゃんに、言った。おっちゃんの肩に、網の糸が、まだ絡まっていた。
「奥の店の品も。……取り返せなかった」
おっちゃんは、籠を膝に抱えたまま、俺の焦げた左手を見ていた。
それから、首を振った。
「取り返さなくていい」
「でも」
「品は、また仕入れりゃいい。……あんたが来てなきゃ、俺は今ごろ、あの艇の腹で、雲の上だ」
通りの両側で、戸が開いていた。網の音で起きた店の人たちが、戸口に立って、こちらを見ていた。品のなくなった自分の店先ではなく、こちらを。
誰も、取られた品の話をしなかった。
おっちゃんが、その人たちに向かって、俺の方を顎でしゃくった。
「この兄ちゃんな。俺の屋台、建てるって言うんだ。……左手一本でな」
向かいの店の主人が、奥へ引っ込んで、肩に角材を何本も担いで戻ってきた。棚板の余りだという。隣の店の女の人が、釘の箱と縄の束と、俺の左手に巻く布を持ってきた。その隣の爺さんが、木槌を。
*
右腕は、まだ使えなかった。布を巻いた左手だけで、木槌を振った。
穴を掘るのは、向かいの主人がやった。柱を支えるのは、おっちゃんがやった。俺は何度も外して、何度も笑われた。
塔の向こうが明るくなってきたころ、柱が、四本立った。縄で仮に縛った柱の脇で、右の指が、ようやく少しずつ握れるようになっていた。
「あとは横木だけだ」
「……あんた、損な性分だって、言われねえか」
前にも、桟橋で、同じことを言われた。
答えずに、横木を担いだ。
おっちゃんが、敷き布の端に転がっていた、さっきの果物を拾って、俺の手に載せた。
「今度は、食えよ」




