第115話お客様は、お店にいらっしゃるものですわ
用心棒の方々は、しばらく黙って立っていた。
兄の方も、妹の方も、何も言わない。小夜さんは、書き付けを握ったまま、縄の真下で動けずにいた。
先に動いたのは、縄の左側の、頬に傷のある用心棒だった。
「嬢ちゃん。黒胡椒だろ。こっちの棚だ」
大きな手が、小夜さんの右の手首を掴んだ。
同じ瞬間に、縄の右側の、顎髭の用心棒が、反対の手首を掴んだ。
「赤いのにしときな。そっちの壺、湿気てるってよ」
左と右から、同時に引かれた。
小夜さんの体が、縄の真下で、一度、左に傾いて、右に傾いた。
「っ、痛い……!」
【コメント】おい
【コメント】両側から引っ張ってる
【コメント】小夜ちゃんで綱引きすんな
【コメント】縄の下で、小夜ちゃんが縄になってる
【コメント】兄妹、止めろよ
兄の方が、帳場から腰を浮かせかけた。妹の方も、口を開きかけた。
どちらも、そのまま止まった。止めれば、自分の側の客がいなくなる。そういう顔だった。
わたくしは、日傘の先で、土間を一度だけ、とん、と突いた。
「スタロ様。三十秒、お待ちいたしますわ」
スタロ様が、果物を、妹の方の帳場の端に置いた。
【コメント】三十秒
【コメント】来た
【コメント】小夜ちゃんの手首掴んだ時点で、こうなる
【コメント】五
縄の左側の列の端で、ゲイリー様が、ゆっくりと腕組みをほどいた。
「……おい」
頬に傷のある用心棒が、振り返った。
「三十秒だぞ。その手、離せ」
「あ?」
「言ったからな」
ゲイリー様は、それだけ言うと、身を屈めて暖簾をくぐり、さっさと通りへ出ていってしまった。
【コメント】ゲイリー出てった
【コメント】経験者は語る
【コメント】三十秒の意味を知ってる側の人間
【コメント】一回借りたことあるもんな、三十秒
【コメント】十
小夜さんを掴んでいなかった用心棒の二人が、顔を見合わせた。それから、ゲイリー様のあとを追うように、暖簾の外へ転がり出ていった。
スタロ様が、縄の真下へ踏み込んだ。
頬に傷のある用心棒の手首を、上から掴む。捻る。指が開いた。顎髭の方の肘を、手のひらで下から跳ね上げる。小夜さんの体が、二人の間から抜けた。
スタロ様は、小夜さんの肩を押して、妹の方の帳場の陰へ下がらせた。
「どなたですの、スタロ様」
わたくしは、声をかけた。
スタロ様は、答えなかった。
腕を上げなかった。指は、拳のまま、握られていた。
【コメント】スタロ、指ささない
【コメント】さしたら、さされた奴が消えるからな
【コメント】……島の縁のあと、だもんな
【コメント】自分で片付ける気だ
【コメント】二十
痺れ棒が、二本、振り下ろされた。
スタロ様は、一本を腕で受けて、もう一本を肩で受けた。白い装甲に走る蛍光の線が、二度、続けて明滅した。青い火花が散って、腕が、びくりと跳ねた。
頬に傷のある方の膝を払う。土間に転がった背中を、片膝で押さえる。
顎髭の方が、戸口の方へ跳び退いて、痺れ棒を振りかぶり直した。
スタロ様は、押さえた男から、まだ手が離せなかった。
スタロ様の声が、かすれていた。
「……あと、ひとり――」
わたくしは、暖簾をくぐって、通りの向かいの軒下まで下がった。
それから、丁子屋の看板を見上げた。
「問屋さんは、お店のことですものね」
以前、小夜さんに、そう教わった。
「……お店の正面だけに、いたしますわ」
【コメント】問屋さんは、お店
【コメント】覚えてた
【コメント】覚えた結果がそれ?
【コメント】正面は、お店じゃないのか
【コメント】二十七
二十八。
帳場の陰で、妹の方が、膝を抱えて戸口を見ていた。
柔らかい目だった。
その目を、お借りした。
――戸口。振りかぶられた痺れ棒。顎髭。土間に押さえつけられた、もうひとりの背中。その上の、白い背中。
二十九。
スタロ様が、押さえていた男を抱えたまま、光の足場を蹴って、店の奥へ転がった。
三十。
白。
【コメント】うわ
【コメント】戸口ごと
【コメント】暖簾が
【コメント】看板!
【コメント】壺が
【コメント】瓶が
音のあとに、匂いが来た。
割れた壺と瓶の中身が、いっぺんに宙に舞っていた。黒い粒、赤い粒、黄色い粉、名前も知らない緑の葉。それが爆風に巻き上げられて、店じゅうに、もうもうと立ちこめた。
誰かが、くしゃみをした。
続けて、もうひとり。それから、店じゅうが、くしゃみをした。
【コメント】www
【コメント】店がくしゃみしてる
【コメント】胡椒爆弾
【コメント】配信越しでも鼻がむずむずする
【コメント】これ、映像に匂いなくてよかった
わたくしは、日傘を開いて、降ってくる粉を除けた。
店の正面が、なくなっていた。
暖簾も、戸口も、黒ずんだ柱も、瓦の庇も。「丁子屋」の看板が、通りの真ん中に、裏返しで落ちていた。顎髭の方は、光の粒になって、もう昇りきったあとだった。
そして、土間の真ん中に張られていた縄が、どこにもなかった。
梁から床まで、まっすぐに張られていた一本が、爆風に千切れて、消えていた。
店の奥で、スタロ様が、押さえていた男を床に下ろした。気を失っているだけらしかった。
蛍光の線が、粉まみれで、薄く光っていた。
「……もう少しだった」
ひとりごとのような声だった。
「ええ。スタロ様も、もう少しでお片付けがお済みになるところでしたわね」
スタロ様は、わたくしを見なかった。
*
粉が、少しずつ、床に落ち着いていった。
帳場の陰から、小夜さんが立ち上がった。目が真っ赤だった。くしゃみのせいなのか、そうでないのかは、分からなかった。
小夜さんは、前掛けの粉をはたいてから、縄のなくなった土間の真ん中に立った。
「……わたし、決めた」
兄の方と、妹の方が、顔を上げた。どちらも、頭から粉をかぶって、同じ色になっていた。
「わたし、どっちの客にもならない」
兄の方が、「……は?」と声を漏らした。
「わたしは、丁子屋のお客になる」
小夜さんは、鈴村さんの書き付けを、二人の前に広げた。
「黒いのと、赤いの。両方、要るの。わたしのお店でもそう。一個ずつしか置いてないお店なら、わたし、どっちにも来ない。両方ある店なら、毎回ここに来る」
小夜さんは、壁の書き置きを指さした。爆風で端が破れていたけれど、震えた筆の字は、まだ読めた。
「『多くの客を得た方に』でしょ。お客は、お店に来るの。縄に来るんじゃない」
しばらく、誰も、何も言わなかった。
通りの向こうで、ゲイリー様が、くしゃみをひとつした。
兄の方が、土間に落ちていた炭の欠片を拾った。
左の板にも、右の板にも行かずに、壁の書き置きのすぐ下に、炭の線を、一本だけ引いた。
妹の方が、それを見て、黙って頷いた。
【コメント】……
【コメント】一本だけ
【コメント】板じゃなくて、書き置きの下に
【コメント】二人で一本。店はひとつ、ってことか
【コメント】小夜ちゃん、お店屋さんの言い方してた
【コメント】そりゃそうだ、あの子も店の主だもん
【コメント】胡椒まみれの和解
【コメント】縄、明日には戻るんだよな
【コメント】戻っても、もう張らないだろ
わたくしは、日傘を傾けて、にっこりと微笑んだ。
「まあ。お客様は、縄ではなく、お店にいらっしゃるものですわね」
【コメント】小夜ちゃんの台詞取った
【コメント】自分が言ったみたいな顔
【コメント】縄、吹っ飛ばしたのはお嬢だけどな
【コメント】それはそう
振り返ると、ゲイリー様が、通りの真ん中の、裏返しの看板に腰かけていた。
毛皮の胴着が、すっかり赤い粉まみれになっていた。
「……日当、前払いでもらっといて、よかった」




