第106話お招きは、小夜さんのものですわ
展望台は、役所の島の、いちばん端にあった。
白い石の床が、空の方へ、長く張り出している。手すりは、腰の高さの硝子が一枚だけ。その向こうには、何もなかった。ずっと下に雲があって、雲の下に、海があるだけ。
手すりの際に、筒の形をした硝子の望遠鏡が、三つ並んでいた。
【コメント】展望台
【コメント】柵が硝子一枚
【コメント】高所恐怖症には無理
【コメント】今日は爆発なし?
【コメント】まだ分からん
【コメント】お嬢が静かな日は、だいたい何か起きる
会合は、休憩のあとも続いていた。鈴村さんが扉の向こうから出てくるまで、まだしばらくかかる。
小夜さんは、手すりの前に立って、空を見ていた。
浮島が、近かった。
下町の港から見上げていたときは、雲の少し下に浮かぶ、白い粒の連なりだった。ここからだと、ひとつひとつの島の形が分かる。尖塔の窓の、青白い灯りのひとつひとつまで。
大きな島の縁から、一本の滝が垂れていた。
水は、まっすぐに落ちていって、途中で、ほどけていた。白い糸が、少しずつ細くなって、霧になって、そのまま空に溶けていく。海までは、一滴も届いていなかった。
「……どこにも、落ちないんだね」
小夜さんが、ぽつりと言った。
「下からだと、途中で見えなくなるだけだと思ってた。ほんとに、消えてるんだ」
【コメント】滝が霧になってる
【コメント】下からだと分かんなかったやつ
【コメント】綺麗だな
【コメント】小夜ちゃん、ずっと見てる
わたくしは、望遠鏡の脇の、小さな光の板を見た。
銅貨を一枚入れると、しばらくのあいだ覗ける、と書いてあった。
銅貨を一枚、落とした。
「小夜さん。どうぞ」
「え、いいの?」
「わたくし、こういうものは、覗くより、覗いていらっしゃる方を見る方が好きですの」
【コメント】お嬢がおごった
【コメント】銅貨一枚だけど
【コメント】お嬢、優しい
【コメント】たまにいいこと言うんだよな、この人
小夜さんは、少しためらってから、望遠鏡に顔を寄せた。
しばらく、黙っていた。筒の先が、ゆっくりと、島から島へ動いていく。
「……おばあちゃんがね」
望遠鏡を覗いたまま、小夜さんが言った。
「晴れた日に店先から見えると、手を止めて、いつまでも眺めてた。あそこは、滝の音がするのかなって。こんなに遠いのに、聞こえるわけないのにね」
筒の先が、大きな島の滝のところで、止まった。
「……音、しないね」
「ええ」
「ここまで来ても、しない」
小夜さんは、望遠鏡から顔を離した。
それから、手すりの硝子に両手を置いて、目を閉じた。
風の音がした。どこか遠くで、浮遊艇の、空を擦るような低い唸り。それだけだった。
【コメント】……
【コメント】静か
【コメント】滝の音、聞こえないのか
【コメント】遠すぎるんだろうな
【コメント】おばあちゃん、ここまでは来られなかったんだな
【コメント】代わりに孫が来た
小夜さんは、目を開けた。
首もとの首飾りを、指先でつまんで、そっと引き寄せた。細い鎖の先の、小さな飾り。それを手のひらに乗せて、浮島の方へ、少しだけ持ち上げた。
誰に見せているのかは、聞かなかった。
「……上に来てから、ちょっとだけ、息がしやすい」
小夜さんは、首飾りを握ったまま、言った。
「下にいると、ここんとこ、なんか、ずっと……。港のこととか。いろいろ」
「ええ」
「串屋さんの言ったとおりだね。離れたら、気が紛れた」
わたくしは、小夜さんの隣に並んで、手すりの硝子に、日傘の先をそっと預けた。
「それは、よろしゅうございましたわ」
【コメント】小夜ちゃん、やっぱりしんどかったんだ
【コメント】港の件、一番近くにいたもんな
【コメント】串屋さん、よく見てる
【コメント】上層編、小夜ちゃんの息抜き回でいいよもう
しばらく、二人で、滝が霧になるのを見ていた。
「ねえ、瑠璃華」
「なんですの」
「前にさ。港の乗り場で、言ってたよね。招かれないと、行かないって」
「ええ。お嬢様は、自分から追いかけたりはいたしませんもの」
「招かれてないのに、来ちゃったね」
小夜さんは、少しだけ、意地の悪い顔をした。
わたくしは、首を傾げた。
「いいえ。わたくしは、小夜さんのお供ですわ。お招きは、小夜さんのものですもの」
「わたしだって、招かれてないよ。書類持ちだもん」
「でしたら、串屋さんのお招きですわね」
小夜さんは、小さく吹き出した。
港の乗り場で、浮島行きの運賃を見上げていた日と、同じ笑い方だった。
【コメント】小夜ちゃん笑った
【コメント】よかった
【コメント】この二人のこういうの、久しぶりに見た
【コメント】爆発なしの回、ありがたい
【コメント】お嬢の配信で心が洗われる日が来るとは
*
足音がして、振り返ると、鈴村さんが展望台の入口に立っていた。
紺の上着の襟もとが、少しだけ緩んでいた。手に、白い封筒を一通、持っている。
「お待たせいたしました。今日の分は、終わりました。明日でまとまりそうです」
「お疲れさまでした、鈴村さん」
「それから、帰り際に、これをいただきまして」
鈴村さんは、封筒をこちらへ差し出した。
封蝋に、草花の紋。
「庭園の島が、点検を終えて、ふたたび開かれるそうです。その式典が、明後日。下町の代表と、そのお連れの皆さんもぜひ、と」
わたくしは、封筒を受け取った。
宛名の欄に、小さく、丁寧な字で、並んでいた。下町区域代表、鈴村様。ご同行の皆様。
「まあ」
思わず、声が出た。
「ようやく、お招きいただけましたわ」
【コメント】庭園の島
【コメント】点検明け
【コメント】待って
【コメント】それ、お嬢が落とした島じゃね
【コメント】招く側は知らない
【コメント】ようやくお招きいただけましたわ、じゃないのよ
小夜さんが、わたくしの手の中の封筒と、わたくしの顔とを、順番に見た。
何か言おうとして、口を開けて、それから、閉じた。
鈴村さんは、何も言わなかった。
穏やかに笑って、展望台の向こうの、滝が霧になっていくあたりを見ていた。




