第105話三十秒、お聞きいたしましたわ
役所の島は、硝子の塔が三本、渡り廊下でつながった島だった。
塔の中は、どこまでも白い廊下と、どこまでも同じ形の扉。その扉の前を、灰色の制服の方々が、硝子の板を抱えて足早に行き交っている。誰も、走らない。誰も、声を上げない。足音だけが、天井の高いところで、こつこつと響いていた。
【コメント】こんにちは
【コメント】役所の島だ
【コメント】静かすぎる
【コメント】下町の詰所と同じ「役所」とは思えん
【コメント】スタロとゲイリーは?
【コメント】配信の頭でお嬢が言ってた。スタロは上の衛兵のとこ、投げ文の話を聞きに
【コメント】ゲイリーは手配書の掲示板の前から動かないらしい
【コメント】昨日の続き、往復分
会合の部屋の前で、鈴村さんは、紺の上着の襟を一度だけ直した。
扉の前には、あの背の高い女の方が立っていた。灰色の制服。硝子の板。港の両替所の前で、わたくしに「判定上、問題はございません」とおっしゃった方だ。
女の方は、わたくしを見て、ほんの一瞬、口を閉じた。
「……九条院さんも、ご同席ですか」
「いいえ。わたくしは、小夜さんのお使いのお供ですの」
「そうですか」
女の方の肩が、わずかに下がった。
【コメント】ほっとしてる
【コメント】今、ほっとしたよな
【コメント】乗り場の衛兵と同じ反応
【コメント】お嬢、上でも要注意人物リスト入りしてる
「鈴村さん。こちらへ」
「承知しております」
鈴村さんは、振り返って、小夜さんに文箱をひとつ預けた。
「小夜さん。写しを、記録の塔と、印の塔へ。受け取りの印をいただいたら、ここの受付へお戻しください。……くれぐれも、気をつけて」
「うん。行ってくる」
扉が、音もなく閉じた。
扉の上で、小さな光が、青から赤に変わった。
*
小夜さんは、迷わなかった。
三本の塔のどれがどれか、渡り廊下のどこを曲がるか、昨夜のうちに案内の板を見て覚えてきたらしい。わたくしは、その後ろを、日傘をたたんでついていった。記録の塔で印をひとつ。印の塔で、もうひとつ。窓口の方に文箱を開けて見せるたび、小夜さんは、背筋を伸ばして、ゆっくり、はっきりと名乗った。
「下町区域代表、鈴村の随行です」
【コメント】小夜ちゃん、しっかりしてる
【コメント】官庁街に初めて行ったとき、目つぶってた子だぞ
【コメント】成長が早い
【コメント】お嬢、完全にただの付き添い
三本目の塔へ戻る、長い渡り廊下の途中だった。
硝子の床の下に、雲が流れていた。向こう端に、書類を山と積んだ台車を押す、若い書記の方がひとり。それから、反対の端から、荷運びの前掛けをした男の方が、四人。
どこにでもいそうな、日に焼けた顔の方々だった。
すれ違いざま、ひとりが、小夜さんの腕から、文箱をむしり取った。
「あっ――」
小夜さんがよろける。わたくしが手を伸ばすより先に、男の方々は、もう、向こう端へ走り出していた。書記の方の台車の脇をすり抜けて、三本目の塔の方へ。
【コメント】ひったくり!?
【コメント】役所の中で
【コメント】荷運びの格好してる
【コメント】書類狙いか
【コメント】会合の邪魔したい奴がいるってこと?
【コメント】スタロいない
【コメント】三十秒だ
わたくしは、日傘を開いた。
「スタロ様は、別の島ですものね。三十秒、お待ちいたしますわ」
「瑠璃華、待って――」
小夜さんが、わたくしの袖を掴んだ。
それから、ちらりと、渡り廊下の向こう端を見た。走っていく男の方々。その先で台車を止めて、こちらを見ている書記の方。
小夜さんは、声を落とした。
「……あのね。あの箱」
「ええ」
「あれ、ね」
小夜さんは、言葉の代わりに、自分の前掛けの胸もとを、とん、と指で叩いた。
一度。それから、もう一度。
「まあ」
わたくしは、小夜さんの手を、両手でそっと包んだ。
「お胸が、どきどきなさいますのね。無理もございませんわ。もう大丈夫。わたくしが、三十秒お待ちしてから、きちんと片付けて差し上げますから。お話は、そのあとで、ゆっくり伺いますわ」
「ちがう、そうじゃなくて――」
【コメント】小夜ちゃん、何か伝えようとしてる
【コメント】胸を叩いた
【コメント】ジェスチャー
【コメント】お嬢、受け取り方
【コメント】どきどきじゃないだろ絶対
【コメント】声に出せない何かがあるのか
【コメント】十五
「だから、ここに――」
「ええ、ええ。こちらにおりますわ。どこへも参りませんもの」
小夜さんは、ぱくぱくと口を動かして、それから、天井を仰いだ。
二十五。
【コメント】二十五
【コメント】言え!
【コメント】もう大きい声で言え!
渡り廊下の中ほどで、台車を止めていた書記の方が、走り抜けていく四つの背中を、口を開けて見送っていた。
――四つの前掛けが、三本目の塔の扉に手をかけた。
白。
気づいたときには、渡り廊下の向こう半分が、なくなっていた。
硝子の床も、天井も、塔の扉の手前の、ひと区画ぶんの壁も。四つの粒が昇っていった。それから、台車の上の書類が、一枚残らず、白い紙吹雪になって、ゆっくりと、雲の中へ舞い降りていった。
書記の方は、柄だけになった台車を握ったまま、渡り廊下の、ちぎれた縁に立っていた。
【コメント】
【コメント】半分いった
【コメント】役所の中で撃った
【コメント】書類が、雲に
【コメント】書記さんの台車、柄だけ
【コメント】あれ、今月の決裁とかじゃないのか
小夜さんは、わたくしの袖を掴んだまま、ちぎれた渡り廊下の向こうを見ていた。
それから、ゆっくりと、手を離した。
「……あれ、空っぽだったんだけど」
「まあ」
小夜さんは、前掛けの胸もとに手を入れて、折りたたんだ紙の束を取り出した。
受け取りの印が、二つ。きちんと押されていた。
「大事なのは、こっち。港のことがあってから、箱には入れないことにしてたの。……大きい声で言ったら、意味ないでしょ」
【コメント】www
【コメント】空っぽ!
【コメント】胸を叩いてたの、それか
【コメント】お嬢、三十秒お待ちして、三十秒お聞きしなかった
【コメント】小夜ちゃん賢すぎる
【コメント】ひったくりは空箱のために粒になった
【コメント】書記さんの書類だけ、とばっちり
「わたくし、ちゃんとお聞きしておりましたわ。三十秒」
「最後まで聞いてから撃ってよ……」
会合の部屋の扉の上で、光が、赤から青に変わった。
扉が開いて、鈴村さんが出てきた。後ろに、あの背の高い女の方。廊下の向こうの、ぽっかり空いた空と、ちぎれた渡り廊下と、柄だけの台車を、ゆっくりと見渡した。
女の方の目が、最後に、わたくしで止まった。
「……休憩に、出てきただけなのですが」
「小夜さんの文箱が、ひったくられてしまいましたの」
鈴村さんが、小夜さんの前に膝をついた。
「お怪我は」
「ない。書類も、ここ」
「……そうですか。よかった」
鈴村さんは、小夜さんの手の紙の束を、しばらく見ていた。それから、穏やかに笑って、立ち上がった。
女の方は、硝子の板を胸に抱えたまま、ちぎれた渡り廊下を見ていた。
「書類を奪おうとする方々まで、出てきましたか」
それだけ言って、女の方は、こめかみに指を当てた。
「……渡り廊下も書類も、明日までに戻ります。書き直しの手間は、戻りません。以上です」
【コメント】出た、以上です
【コメント】手間は戻りません
【コメント】書記さん……
【コメント】会合中に、外でこれ
【コメント】反対派とかいるんだろうな、上にも




