第102話お先に、失礼いたしますわ
港の連絡艇の乗り場は、今朝も硝子の中で人が透けていた。
壁も屋根も、隙間なくはめ込まれた硝子板。長椅子は埋まり、柱のまわりには立ったままの人の輪。正面の光の板では、出航の刻限と行き先と運賃とが、青白く流れては入れ替わっていく。
以前、骨組みだけになったことなど、どこにも残っていなかった。
【コメント】こんにちは
【コメント】乗り場だ
【コメント】ついに上か
【コメント】ここ、前に待合所ごと消えたとこだよな
【コメント】乗客のみなさん、今日はご無事で
【コメント】今日は乗る側だから大丈夫……大丈夫か?
光の板の前に、大きな背中が立ちはだかっていた。
熊の毛皮の胴着から、布を巻いた太い腕が二本。その片方の指が、板の一行を、ゆっくりとなぞっていた。
「……片道で、これか」
「ごきげんよう、ゲイリー様。お早いですわね」
「お嬢ちゃん。上の連中は、空気にも値段つけてんのか」
ゲイリー様は、板を睨んだまま、腰の銭袋の口を緩めた。
中を覗いて、もう一度、板を見た。それから、そっと口を締めた。
「上の手配書は、額が違うって聞いた。一枚当たりゃ、元は取れる」
「まあ。お仕事熱心ですこと」
「当たりゃ、な」
【コメント】ゲイリー、財布と相談してる
【コメント】賞金稼ぎの出張
【コメント】往復は無理な顔
【コメント】帰りの分は上で稼ぐ前提
少し離れた柱のそばに、白い影が立っていた。
スタロ様は、こちらに軽く手を上げただけだった。蛍光の線は、港の長屋の前で見たときよりは、明るかった。
「投げ文の紙。関谷さんが言うには、上でも似たのが拾われてるらしい」
「まあ。カンパネッロ様、お顔がお広いのですわね」
「……褒めるなって」
わたくしは、スタロ様を、兜の先から足もとまで、改めて眺めた。
つるりとした白い兜。横一文字の青い目元。全身を走る、明るい光の線。胸の真ん中で、星の形が、ちかちかと瞬いている。背中の短いマントの裾は、焦げてほつれていた。
「ところでスタロ様。……その格好で、船にお乗りになりますの?」
「は?」
「下町の皆様は、もう見慣れていらっしゃいますけれど。上の方々は、スタロ様のことを、ご存じないのではなくて?」
スタロ様は、自分の胸の星を見下ろした。
それから、乗り場の隅を見た。灰色の外套の衛兵の方が二人、さっきから、ずっとこちらを見ていた。ひとりは、腰の痺れ棒に手を添えていた。
「……これしか、ないんだよ」
「まあ」
【コメント】www
【コメント】言われてみれば
【コメント】顔の見えない全身発光の男
【コメント】知らなきゃただの不審者
【コメント】衛兵さん、ずっとマークしてたのか
【コメント】それをドレスに縦ロールに日傘の人が言う
【コメント】お前が言うな選手権、優勝
鈴村さんと小夜さんは、もう改札の前に並んでいた。
小夜さんは、黒塗りの文箱を三つ、胸に重ねて抱えていた。鈴村さんは、いつもの前掛けではなく、襟のついた紺の上着を着ていた。それだけで、ずいぶん別の方に見えた。
「皆さん、お揃いですね。では、参りましょうか」
*
改札には、扉がなかった。
二本の硝子の柱のあいだに、薄い光の膜が張ってあるだけ。脇に、硝子の板を手にした若い係の方が、ひとり立っている。官庁街の門と同じ造りだった。違うのは、膜をくぐるたびに、その上に光の文字が浮かんで、乗り場じゅうから見えることだった。
鈴村さんが、先にくぐった。
『下町区域代表。鈴村。搭乗を許可します』
小夜さんが、続いた。
文箱を抱えたまま、ほんの一瞬、立ち止まった。それから、目を開けたまま、膜をくぐった。
『下町区域住民。代表の随行者。搭乗を許可します』
【コメント】小夜ちゃん、今日は目つぶってない
【コメント】官庁街のときはぎゅってしてたのにな
【コメント】随行者、運賃は代表持ちか
【コメント】前に浮島行きの値段見て「こんなにするんだ」って言ってた子が
スタロ様が、続いた。
『プレイヤー。スターライトロード。記録、なし。搭乗を許可します』
わたくしの番だった。
膜は、日傘の先からドレスの裾まで、さらりと撫でていった。くすぐったくも、冷たくもなかった。
『プレイヤー。九条院瑠璃華。記録、なし。搭乗を許可します』
【コメント】記録、なし
【コメント】なし!?
【コメント】スタロと同じ判定
【コメント】同じ「なし」なのが一番おかしい
【コメント】知ってたけど、文字で見ると来るものがある
【コメント】乗り場ふっ飛ばした人が乗り場の審査を素通り
【コメント】判定上、問題はございません(久しぶり)
【コメント】世の中間違ってる(二回目)
乗り場の隅で、衛兵の方の手が、ようやく痺れ棒から離れた。
二人そろって、長い息を吐いていた。
膜の向こうで、スタロ様が、その二人とわたくしとを、見比べた。
【コメント】あ
【コメント】今、手離した
【コメント】警戒されてたのお嬢様じゃん!
【コメント】スタロじゃなかった
【コメント】スタロ、気にして損したな
【コメント】「これしかないんだよ」返して
最後に、ゲイリー様が膜の前に立った。
大きな体を少しかがめて、くぐる。
膜が、色を変えた。
澄んだ青が、くすんだ黄に。柱の内側で、低い音が二度鳴った。
『プレイヤー。ゲイリー。記録、あり。自首した賞金首。評判に照らし、追加審査とします。所要、七日』
乗り場じゅうの顔が、光の文字を見上げた。
「……七日」
ゲイリー様は、膜の中で、くぐりかけた姿勢のまま固まっていた。
「七日って、お前。……船、今日だぞ」
「規則ですので」
係の方は、硝子の板から目を上げなかった。
【コメント】止まった
【コメント】ゲイリーだけ
【コメント】自首した賞金首、一生ついて回るやつ
【コメント】灯台の件、どう見てもお嬢なのに
【コメント】冤罪説の当事者が並んで、片方だけ止められてる
【コメント】ゲイリーを救う会、緊急再結成
【コメント】活動内容:見守る
わたくしは、膜の向こうから、黄色い光の中のゲイリー様を見ていた。
「まあ。ゲイリー様、お気の毒に」
「……お嬢ちゃん、あんたに言われると、なんか、こう」
「では、七日後に。お先に、失礼いたしますわ」
「待て待て待て」
【コメント】置いてく気だ
【コメント】ためらいゼロ
【コメント】お先に失礼いたしますわ、じゃないのよ
鈴村さんが、膜のこちら側から、一歩、戻った。
「失礼。その方の身元は、私がお引き受けいたします」
係の方が、初めて顔を上げた。
硝子の板に目を落として、それから、鈴村さんの上着の襟もとを見た。
「下町区域代表による、保証。……保証人は、同行者の行いにも責を負いますが」
「存じております」
係の方は、少しだけ迷うように指を止めて、それから、板の上を軽く叩いた。
膜が、青に戻った。
『保証、受理。搭乗を許可します』
【コメント】通った
【コメント】串屋の旦那!
【コメント】代表の顔、上にも効くのか
【コメント】行いにも責を負うって言われて即答したぞ
【コメント】ゲイリーの行いの責任、重くない?
【コメント】隣にお嬢がいる時点で、一番重いのはそっちでは
誰もが、まだ、膜の上の光の文字を見上げていた。
鈴村さんだけが、見上げていなかった。ゲイリー様のお顔を、まっすぐに見ていた。
ゲイリー様が、膜を抜けてきた。
鈴村さんの前で、足を止める。
「……旦那。なんで」
「串を、三倍のお値段で買ってくださるお客様を、七日もお待たせするわけには参りませんので」
鈴村さんは、穏やかに笑った。
ゲイリー様は、何か言いかけて、やめた。首の後ろを、布を巻いた手で、がしがしと掻いた。
「……高くつきそうだな、この借り」
「いいえ。串のお代だけで、結構ですよ」
ゲイリー様は、それ以上、何も言わなかった。
ただ、連絡艇に向かう鈴村さんの背中を、ずいぶん長く見ていた。
*
連絡艇は、音もなく桟橋を離れた。
窓の外で、港が、ゆっくりと沈んでいった。荷揚げ場の起重機が、玩具のように小さくなる。坂が見えた。屋根の波が見えた。
その波のところどころに、白い点が散っていた。
石段のふもと。港の裏。坂の下手。港の詰所。
古い屋根の茶色の中で、そこだけ、紙を切って貼りつけたように白かった。
【コメント】上から見ると、すげえ
【コメント】白いとこ、点々と
【コメント】地図より分かりやすい
【コメント】……なんか、線っぽくね?
【コメント】やめろ
【コメント】今それ言うな
スタロ様は、窓に額を寄せて、白い点をひとつずつ、黙って見下ろしていた。
ゲイリー様は、座席に深く沈んで、もう目を閉じていた。
小夜さんは、下を見ていなかった。
文箱を膝に置いて、窓の上の方を見上げていた。雲の切れ間に、尖塔の並ぶ島々が、いくつも浮かんでいた。島の縁から、細い滝が、海へと垂れていた。
小夜さんの指が、首元の首飾りに、そっと触れた。
「……近いね」




