第101話閑話 半歩、戻ってきた
☆ 紫堂万里花視点 ☆
事務所の会議室は、いつ来ても空調が強すぎる。
長机の向こうに、部長。私の隣に、マネージャーの小野寺さん。机の真ん中に置かれたタブレットには、先月の数字が並んでいた。登録者数、平均同接、質問箱の件数。
どれも、少しずつ右肩上がりだった。五年間、ずっとそうだった。なだらかで、崩れなくて、ほとんど平らな坂。
少しずつ、ではない線が、一本だけあった。
「ここ」
部長が、ペンの先で、その線を叩いた。
「この一週間で、急に跳ねてる。紫堂さんの配信の、新規の流入元。半分以上が、同じところから来てる」
「……はい」
「分かってるよね」
分かっている。
問屋さんは、お店のことですわ。あの夜から、コメント欄に、見覚えのない名前が増えた。日傘のアイコン。縦ロールのアイコン。「お嬢の師匠と聞いて」。
「あの子、あなたの名前、一回も出さないのよー」
小野寺さんが、横から身を乗り出した。
「『尊敬するお方』って言うだけ。『あの方のご迷惑になりますもの』って。偉いわよねえ。……まあ、もうみんな知ってるんだけど」
知っている。
次の朝の配信で、あの子がそう言ったところまで、私は見ていた。コメント欄が、目が赤いと騒いでいた。アバターの目は赤くならない、と誰かが返していた。
そこまで考えて、やめた。
中の人のことは、考えないことにしている。
*
「で、本題。これ」
部長が、タブレットの画面を切り替えた。
切り抜きだった。サムネイルの文字が、太い。
――【お嬢】師匠の名言で、借金の勧誘会をお開きにした件
「……見ていいんですか、会議中に」
「見てもらうために呼んだの」
古い芝居小屋だった。
燭台が二本。座布団の客席。いちばん前の真ん中に、金髪の縦ロールが、ひとりで座っている。舞台の上で、裾の長すぎる上着の男の子が、両手を広げていた。
『よろしくて? 欲しいものほど、自ら追いかけてはいけませんわ』
私の言葉だった。
今度は、あの子の口からではなかった。
『人を動かしてこそ、お嬢様、ですわ。……お知り合いを、お連れなさいまし。一人お連れくだされば、紹介料』
紅茶が欲しくなった。会議室には、紙コップの水しかなかった。
『贈られたお言葉は、受け取った方のものですわ。……契約のお言葉も、同じこと。お読みになったあなたのもの』
喉の奥で、変な音がした。
小野寺さんが、そっと私の背中に手を置いた。
画面の中で、縦ロールの子が、立ち上がった。
『わたくし、尊敬するお方から、もうひとつ、お言葉を賜っておりますの。……教えというのは、半歩ずれて受け取れば、反対側へ歩いていくものですわ』
画面の右側を、コメントが、滝みたいに流れ落ちた。
――お前のことだよっ!
――お前のことだよっ!!
――お前のことだよ
「……私も、そう思う」
口から出ていた。
部長が、初めて少しだけ笑った。
『あの方のお言葉は、恋のお話でしたのよ。お金のお話では、ございませんの』
手のひらで、口を押さえた。
分かってたんだ。
あの子は、最初から、分かっていた。恋の話だと分かっていて、それでも自分の場面に持っていって、自分で考えて、使っていた。
*
そこから先は、変な映像だった。
縦ロールの子は、日傘を開いて、舞台に背を向けた。それきり何もしなかった。何かを数えているらしい、とコメントで分かった。三十秒。舞台の男の子が、真っ青な顔で客席に叫んでいる。署名に、三十秒もかかりませんわ。
客席の人たちが、何もない宙に、指を伸ばしていた。
いちばん後ろの人が、宙の何かを、指で払った。
またひとり。その隣も。
誰も、何も言っていなかった。座布団の上で、それぞれが、自分の指で、自分の画面を閉じていった。最後に、擦り切れた外套の男の人が、長いこと宙を見つめて、指を止めていた。
止めて、考えて、閉じた。
立ち止まって、自分で考えて。
前に、自分の配信で言った言葉だった。あの子に言ったつもりの言葉だった。
それが、知らない誰かの指の上で、ちゃんと着地していた。
――画面が、白くなった。
二度目でも、肩が跳ねた。
煙が晴れると、舞台がなかった。屋根も、半分なかった。穴の向こうに、夜空と、遠くの提灯が見えた。
「……撃つんだ」
さっきまでの気持ちが、半分くらい、どこかへ行った。
「撃つのよー」
小野寺さんが、なぜか誇らしげに頷いた。
「お客さんは全員無事。舞台の二人だけ。ゲームだから、すぐ生き返るし、小屋もそのうち元に戻るんだって。……私、最近ちょっと詳しいのよ」
「詳しくならなくていいです」
切り抜きは、翌朝の雑貨屋の、短い場面で終わっていた。縄を買っていく、擦り切れた外套の背中。その上に、コメントが何行か、焼きつけてあった。
――この切り抜き、マリカ様に届くぞ
――届けるな
――いや、今回のは届いていいやつだろ
「……届いてるよ」
小さく言った。誰にも聞こえない声で言ったつもりだったのに、小野寺さんが、また背中に手を置いた。
*
部長が、タブレットを引き寄せて、画面を消した。
「再生数、見た?」
「……見てないです」
「見なくていい。とにかく、すごい。で、コメントの上の方。『マリカ様の弟子、戦闘の中で名言を使いこなしてる』『師匠の教え、戦闘向きでは』」
「……あの、弟子じゃないです」
そこだけは、言っておきたかった。
「直接、何か教えたことは一度もないです。私が配信で、誰かのお便りに答えた言葉を、あの子が勝手に覚えてて、勝手に……実践? してるだけで」
「いいのよー、弟子で」
小野寺さんが、にこにこと手を振った。
「みんな、もう弟子って呼んでるんだから。切り抜きのタイトルも『師匠の名言で』だし。ね、部長」
「うん。弟子で」
「……弟子で、って」
弟子ってことにしておかないと困る話が、このあと来る。
なんとなく、分かった。
部長は、ペンを置いて、両手の指を組んだ。
「紫堂さん。五年、お便りの配信をやってきて、数字は堅い。それは本当に、ありがたいと思ってる」
「……ありがとうございます」
「ただ、ずっと横ばいなのも、本当なんだ」
空調の音が、急に大きくなった。
「弟子が、バトル系で活躍してる。紫堂さんの教えで、戦ってる。だったら――紫堂さんの教えは、バトルに活きる教えってことだよね」
部長は、私の顔を見た。
冗談を言っている顔では、なかった。
「紫堂さんも、バトル系、できるんじゃない?」




