第95話 なんでそうなる
――帝国暦三二〇年・冬中頃 ヴェリア帝国・東ロンバルディア騎士団領 第七騎士団本庁・執務室――昼前。
昼前の執務室は、比較的静かだった。
書類の音だけが、一定の間隔で続いている。
その中に、クリスがいた。
正式に詰めているわけではない。
用事があって第七騎士団本庁に来たついでに、少しだけ執務室へ顔を出しただけだった。
少し話して、適当に時間を潰して帰る。
その程度のつもりだった。
ただ、来た時点で失敗だったのかもしれない。空いている椅子に座った瞬間、エリシアから当然のように軽い確認書類を渡された。
そのまま帰るのも面倒で、クリスは仕方なくそれを見ていた。
「……ちょっと寄っただけなんだけどな」
誰にも聞こえない声でぼやく。
リリアは、いつもの席で書類を見ていた。
メリーも、少し離れた場所で仕事を続けている。
その時だった。
シエラが、ふと顔を上げる。
「……クリスさん」
小さく呼ぶ。
「……何だよ」
クリスが嫌そうに返す。
シエラは少しだけ迷ってから、真面目な顔で言った。
「メリエラさんのこと、少し聞いてもいいですか?」
クリスの手が止まった。
「……やめとけ」
即答だった。
シエラが瞬きをする。
「どうしてですか?」
「面倒だから」
短い。
シエラは少しだけ考える。
それから、少し身を乗り出した。
「ですが、頼れるのはクリスさんしかいないんです」
その言葉に、近くの手が止まった。
ミナが、ほんの少しだけ顔を上げる。
ダリオも、書類から目を離した。
リリアも、そっと視線を向ける。
エリシアの視線が、静かにクリスとシエラへ向いた。
厳しい目だった。
クリスは嫌な予感がした。
「おい」
低く言う。
「その言い方やめろ」
シエラは不思議そうに首を傾げる。
「何か変でしたか?」
「変だろ」
「そうでしょうか」
「そうだよ」
クリスが顔をしかめる。
シエラは真面目な顔のままだった。
「では、言い直します」
「いや、いい」
「今度、少しだけお時間いただけませんか?」
言い直したはずなのに、あまり良くなっていない。
クリスの顔が歪んだ。
「は??」
「詳しく聞きたいので」
「やだ」
また即答だった。
シエラが止まる。
視線が、ゆっくり落ちる。
「……そう、ですか」
小さく。
「やはり、私では……」
言葉を濁す。
空気が、少しだけ沈む。
クリスが顔をしかめた。
「……おい」
シエラは何も言わない。
ただ、少しだけ視線を逸らしている。
ミナが小さく息を呑む。
ダリオが眉を寄せる。
リリアが、少し心配そうに二人を見る。
エリシアの目が、さらに細くなった。
クリスはその視線に気づき、余計に嫌な顔をした。
「違うからな」
小声で言う。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
シエラはまだ、少し落ち込んだようにしている。
クリスがため息をついた。
「……分かったよ」
投げるように言う。
「行けばいいんだろ」
シエラが顔を上げる。
「本当ですか?」
少しだけ明るい声だった。
「一回だけな」
クリスが釘を刺す。
「何でも教えるとは言ってねえからな」
「はい」
「必要なことだけだ」
「はい」
「余計なことは聞くな」
「できるだけ気をつけます」
「そこは気をつけるじゃなくて、聞かないって言え」
シエラは柔らかく笑った。
「ありがとうございます」
一瞬で空気が戻る。
そのやり取りを、少し離れた場所から見ていたミナが、小さく呟いた。
「……あら」
視線をずらす。
ダリオも気づいている。
「……違うな」
ぼそりと言う。
「絶対違う」
ミナが笑う。
「でも、そう見えるわよ?」
軽く言う。
ダリオが顔をしかめた。
「やめろ」
その後ろ。
さらに奥。
メリーが、ちらりと視線を向ける。
何か話している。
それくらいは分かった。
けれど、少し距離がある。
会話の中身までは聞こえない。
自分のことを話しているなどとは、まったく思っていなかった。
メリーは一瞬だけ首を傾げる。
そして、すぐに手元へ視線を戻した。
仕事を続ける。
その様子を見て、クリスは少しだけ安心しかけた。
だが、安心するには早かった。
リリアが、クリスとシエラを交互に見る。
そして、少しだけ目を輝かせた。
「……二人だけの秘密のお話ですか?」
小さな声だった。
けれど、周囲には十分聞こえる声だった。
「違う」
クリスは即答する。
だが、シエラは真面目な顔で頷いた。
「はい」
クリスの動きが止まった。
「おい」
シエラは不思議そうに首を傾げる。
「違いましたか?」
「違うだろ」
「ですが、メリエラさんのことですし、あまり他の方に聞かせる話ではないかと」
「そういう意味じゃねえよ」
クリスが顔をしかめる。
リリアは口元を押さえた。
少しだけ嬉しそうだった。
「そうなのですね」
「違うって言ってるだろ」
「でも、シエラさんは秘密のお話だと」
「意味が違うんだよ」
リリアはにこにこしている。
まったく違う意味で受け取っている顔だった。
ミナが小さく笑う。
ダリオが額を押さえる。
エリシアは何も言わない。
ただ、厳しい目でクリスとシエラを見ている。
その目は、茶化しているものではない。
業務中に余計な空気を作るな、という目だった。
クリスはその視線にも気づき、さらに嫌な顔をした。
「俺が悪いのかよ」
小さく呟く。
誰も答えない。
シエラだけが、少しだけ嬉しそうにしている。
相談を受けてもらえたことが、本当に嬉しいらしい。
その素直さが、余計に話をややこしくしていた。
クリスは、もう一度顔を覆った。
少し遊びに来ただけだった。
本当に、ただ少し寄っただけだった。
それなのに、なぜかシエラの相談に乗ることになっている。
しかも周囲は、妙な方向に受け取っている。
「……なんでそうなるんだよ」
誰にも届かない声で呟く。
シエラは気づかない。
ただ、少しだけ嬉しそうだった。
メリーは自分の仕事を続けている。
リリアは静かに書類を読んでいる。
だが、時々こちらを見て、ほんの少し嬉しそうにしている。
クリスは思った。
来るんじゃなかった。
本当に来るんじゃなかった。
シエラに話しかけられると、ろくなことがない。
そしてたぶん。
この面倒は、まだ始まったばかりだった。




