第94話 いつもの日々
――帝国暦三二〇年・冬中頃 ヴェリア帝国東ロンバルディア騎士団領 第七騎士団 本庁・執務室―朝。
執務室の窓からは、正門が見える。
冬の朝。
正門前の空気は、白く霞んでいた。
騎士たちが並んでいる。
その横には、親衛隊の姿もある。
整った列。
揃った気配。
その光景を、窓際から見下ろしている者がいた。
メリーだった。
話には聞いている。
だが、実際に見るのは初めてだった。
正門の向こうから、リリアが姿を見せる。
その瞬間。
「おはようございます、姫様!」
声が重なった。
それだけでは終わらない。
「本日もご無事で!」
「姫様、本日もお健やかに!」
「冷え込みが強うございます。どうかお身体を冷やされませんように!」
「本日も、我ら一同、お守りいたします!」
騎士たちの声は揃っている。
親衛隊の声は静かだが、妙に熱がある。
リリアは正門前で一瞬だけ足を止めた。
少しだけ、困ったように笑う。
そして、いつものように微笑んだ。
「おはようございます」
柔らかく。
視線を順に向ける。
「今日も、よろしくお願いします」
その一言で、正門前の空気が少しだけ変わった。
騎士たちの背筋が、さらに伸びる。
親衛隊の表情も、わずかに引き締まる。
リリアはさらに続ける。
「今日は寒いので、どうか身体に気をつけてください」
静かに言う。
空気が、少しだけ和らぐ。
騎士たちの表情が、わずかに緩む。
親衛隊も静かに頷く。
「姫様も、どうかご無理をなさらず!」
「はい。ありがとうございます」
リリアは少しだけ視線を逸らす。
ほんの少しだけ、照れたように。
それは、この本庁ではいつもの光景だった。
ただし。
メリーにとっては、初めて見る光景だった。
「……これが」
小さく呟く。
「噂の」
その瞬間。
近くで書類を抱えていたダリオが、ぎょっとした顔で振り向いた。
「やめろ」
声を落として言う。
メリーが瞬きをする。
「何をですか?」
「その言葉だ」
「噂の、ですか?」
「そうだ」
ダリオは真顔だった。
「あまり軽率に、その言葉を口にしない方がいい」
「なぜですか?」
「必要以上に警戒される」
「警戒」
メリーはもう一度、窓の外を見る。
正門前では、リリアが騎士たちに微笑んでいる。騎士たちは、それを当然のように受け止めている。
親衛隊は静かに控えている。
ただ、気配が濃い。
普通の挨拶というには、明らかに濃い。
「なるほど」
メリーは静かに頷いた。
「これが、そうなのですね」
「何を納得してるんだ」
ダリオが顔をしかめる。
その声を聞いたのか、シエラが顔を上げた。
ミナも近くにいた。
「あら。メリーさん、初めて見たの?」
「はい」
メリーは頷いた。
「話には聞いていましたが、実際に見ると印象が違います」
ミナがくすりと笑う。
「そうでしょうね」
「騎士団全体の空気を、朝から整える仕組みのように見えます」
「言い方が直接的ね」
シエラが笑う。
ミナも肩を揺らした。
「でも、間違ってはいないわ」
ダリオが低い声で言う。
「間違っていなくても、言い方には気をつけろ」
「やはり、危険なのですか?」
メリーが尋ねる。
ダリオは、一瞬だけ遠い目をした。
「俺はまだ、あの反省文を書かされている」
「反省文?」
メリーはすぐに反応した。
「ああ、掲示板に貼られている」
「見るな」
「見たことはあります」
「だから見るなと言っている」
ダリオの声が少しだけ低くなる。
「あれを俺は、定期的に書かなきゃいけないんだ」
シエラが肩を震わせた。
ミナも口元を押さえる。
「まだ続いているの?」
「続いている」
ダリオは真顔で答えた。
「だから気をつけろ」
メリーは窓の外を見る。
リリアはまだ正門前にいる。
騎士たちも親衛隊も、姿勢を崩さない。
「騎士が恐れるほどのことなのですか?」
メリーが静かに聞いた。
ダリオはゆっくりと首を横に振る。
「俺だけじゃない」
「はい」
「あそこにいる奴らも、だいたい騎士だ」
「そうなんですか」
「騎士だけならいい」
ダリオはさらに声を落とした。
「騎士で、さらに狂信者なんだ」
メリーが少しだけ目を瞬かせる。
「狂信者?」
「主君のためなら手段を選ばない」
ダリオは重々しく言った。
「俺は、あの時それを知った」
シエラがとうとう吹き出した。
ミナも笑いをこらえきれず、肩を震わせている。
「笑うな」
「無理よ」
シエラが小声で言う。
「言い方が重すぎるもの」
「俺にとっては重いんだよ」
ダリオが返す。
メリーは少し考えた。
「どういう事件だったのですか?」
「聞くな」
「ですが、少し気になります」
「気にするな」
「やはり、知りたいです」
ダリオは頭を抱えた。
シエラとミナは、もう笑いを隠せていない。
「お前たち」
ダリオは、メリー、シエラ、ミナを順に見た。
「絶対に言うなよ」
「何を?」
シエラが楽しそうに聞く。
「今の話だ」
「狂信者のこと?」
「それを繰り返すな」
ミナがくすくす笑う。
「本人たちの前では言わないわよ」
「当たり前だ」
ダリオは低く言った。
「これは絶対に言うな」
「私もですか?」
メリーが尋ねる。
「お前が一番危ない」
「なぜですか?」
「記録とか報告とかにしそうだからだ」
「報告事項にはしません」
「そういう問題じゃない」
ダリオは深く息を吐いた。
「俺はもう嫌だ」
その時だった。
メリーが窓の外を見たまま、少しだけ首を傾げる。
正門前の親衛隊員の一人が、ふと顔を上げた。
こちらを見たように見えた。
気のせいかもしれない。
距離はある。
だが、その視線は妙に真っすぐだった。
次の瞬間。
ダリオが、さっと机の陰に身を引いた。
「……何をしているのですか?」
メリーが尋ねる。
ダリオは低い声で答えた。
「目が合った」
「誰とですか?」
「あいつらだ」
ダリオは窓の外を示す。
ただし、指はささない。
視線だけである。
「あいつらとは、もう関わりたくない」
シエラがまた吹き出した。
ミナも完全に笑っている。
いつの間にか近くに来ていたクリスも、口元を押さえていた。
「何を朝からやってるんだ、お前ら」
「何もやっていない」
ダリオが机の陰から答える。
「巻き込まれないようにしているだけだ」
「もう巻き込まれてるだろ」
「言うな」
クリスは窓の外を見る。
リリアが騎士たちに挨拶を返している。
親衛隊が控えている。
その光景を見て、軽く肩をすくめた。
「ああ。姫様の朝の挨拶か」
メリーがクリスを見る。
「今は、あれが普通の状態なのですか?」
「まあな」
クリスは苦笑した。
「ここでは、もう日常だ」
「日常」
メリーはその言葉を繰り返す。
そして、もう一度、窓の外を見る。
リリアは困ったように笑っている。
それを見た騎士たちの表情が、少しだけ緩む。親衛隊は無言だが、明らかに気配が整っている。
「聞いていた以上でした」
メリーが呟く。
「すごい集団ですね」
クリスが小さく笑う。
「否定はしない」
ダリオは、机の陰から低い声で言った。
「お前ら、本当に言うなよ」
「分かっています」
メリーは真面目に頷いた。
「掲示板の反省文が増えないようにします」
「それも言い方が悪い」
クリスが呆れたように言った。
シエラとミナは、まだ笑っている。
ダリオはようやく机の陰から出てきた。
だが、窓際には近づかない。
「俺は仕事に戻る」
ダリオは書類を抱え直した。
「先に仕事を始める」
「いつも仕事はしていますよね」
「今日はもっとする」
そう言って、ダリオは自分の席へ戻っていった。
クリスがその背中を見送る。
「まだ引きずってるな」
「当然でしょう」
シエラが笑いながら言う。
「反省文、掲示板に貼られてるものね」
「見られるのが一番きついんだろうな」
クリスが苦笑する。
メリーは少しだけ考え込んだ。
「なるほど」
それだけ言う。
クリスが横目で見る。
「……何を納得したんだ」
「この本庁の朝についてです」
メリーは淡々と答えた。
「姫様の挨拶は、単なる挨拶ではないのですね」
「それ、言い方に気をつけろよ」
「はい」
メリーは素直に頷いた。
正門前では、リリアが騎士たちにもう一度小さく会釈をしている。
騎士たちはまっすぐに立っている。
親衛隊は、静かに控えている。
それは、確かにいつもの光景だった。
メリーにとっては、まだ新しい。
けれど、この場所では、もう当たり前になっている。
やがて、部屋の中に紙の音が戻ってくる。
奥と、中央で。
少しだけ距離を置いて。
それでも。
同じ朝の中で。
メリーはもう一度だけ、正門を見下ろした。
少しだけ、遠いまま。
そして、少しだけ、面白い。




