幕間2 イリス様はなぜここにいるのですか?
――帝国暦三二〇年・冬中頃 東ロンバルディア騎士団領 ヴァイス邸――イリス私室。
午後。
ヴァイス邸のイリスの私室には、静かな茶の香りが漂っていた。
メイドのメリッサが、音を立てずに茶器を置く。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
リリアは小さく頭を下げた。
向かいにはイリスが座っている。
イリスは今、ヴァイス邸で世話になっている。同じ屋敷には、リリアもいる。レオンもいる。
だからこうして、リリアがイリスの私室を訪ねることも珍しくはなくなっていた。
メリッサは一歩下がり、壁際に控える。
口を挟む気配はない。
ただ、主と客人の様子を静かに見守っていた。
リリアは茶器に視線を落とした。
少し迷う。
それから、思い切って顔を上げた。
「あの、イリス様」
「はい」
「少し、伺ってもよろしいでしょうか?」
「もちろんです」
イリスは柔らかく微笑む。
リリアは少しだけ言葉を選んだ。
「イリス様は、どうして第七騎士団にいらっしゃるのですか?」
「他にも騎士団はありますよね?」
イリスはすぐには答えなかった。
怒ったわけではない。
むしろ、少し楽しそうに目を細めた。
「レオン様に興味があるからです」
「……はい?」
リリアの動きが止まった。
茶器に伸ばしかけた手も、そのまま止まる。
「お兄様に、興味が……?」
「はい」
イリスはあっさり頷いた。
リリアの頬が、少しずつ赤くなる。
「あの、それは……」
「はい」
「その、恋愛的な意味で、でしょうか?」
言ってから、リリアは自分で少し慌てた。
メリッサが壁際で、ほんのわずかに目を伏せる。
イリスは、ゆっくりと微笑んだ。
「もしそうでしたら、どうしますか?」
「こ、困ります」
即答だった。
リリアは慌てて口元を押さえる。
「いえ、その、困るというのは、ええと」
「困るのですね」
「困ります」
「そうですか」
イリスはくすりと笑った。
悪戯が成功したような、柔らかい笑みだった。
「安心してください。今のところ、そういう意味ではありません」
「今のところ……」
「ええ」
「そこも少し困ります」
「では、別の言い方にしましょう」
イリスは茶器に指を添えた。
「私は、レオン様がどういう方なのか知りたいのです」
リリアは少しだけ表情を戻す。
「お兄様が、どういう人かですか?」
「はい」
イリスは静かに頷く。
「近くにいても、まだよく分からない方です」
「それは……分かる気がします」
リリアは小さく言った。
兄なのに、分からないところは多い。
昔からそうだった。
「それに、レオン様はこれから、この騎士団領の中心に近づいていく方だと思っています」
「お兄様が、中心に」
「ええ」
イリスの声は穏やかだった。
「本人が望むかどうかは別として、周囲がそう動いていくでしょう」
「……お兄様は、嫌がりそうです」
「でしょうね」
イリスは微笑みながら、即答した。
「ですが、嫌がりながらも結局やる方です」
「それも、分かります」
リリアは少しだけ笑った。
イリスも小さく頷く。
「だから、レオン様の近くにいれば、一番情報が入りやすいのです」
「情報、ですか」
「はい」
イリスはあっさりと言った。
「第七騎士団のこと。騎士団領のこと。人の動き。仕事の流れ。空気の変化」
静かに並べる。
「そういうものを近くで見て、自分なりに整理しています」
「それを、どなたかに報告しているのですか?」
「必要があれば、します」
イリスは否定しなかった。
「ですが、それが一番の目的ではありません」
「違うのですか?」
「はい」
イリスは、少し楽しそうに言う。
「私が面白いからです」
「面白い……」
「シエラさんほどではありませんが、私も情報を集めるのは好きです」
「シエラさんほどではないのですね」
「あの方ほどになると、別の才能ですから」
イリスは穏やかに言い切った。
「私は、見聞きしたことを自分なりにまとめて、納得するのが好きなのです」
「納得、ですか」
「ええ」
「なぜそうなったのか。誰がどう動いたのか。次に何が起きそうなのか」
静かに。
「そういうものを考えるのは、楽しいものです」
リリアは、少しだけイリスを見つめた。
「では、イリス様は……」
「はい」
「お仕事としてではなく、ご自分が知りたいから、ここにいらっしゃるのですか?」
「それが一番近いですね」
イリスは素直に認めた。
「もちろん、第七騎士団の仕事を手伝うこともあります」
「いつも助かっています」
「ありがとうございます」
イリスは軽く頭を下げる。
「仕事も嫌いではありません。手伝えば、皆さんも喜んでくださいます」
「はい」
「それに、手伝えば手伝った分だけ、見えるものも増えます」
リリアは少し笑った。
「やはり、それも情報収集なのですね」
「そうとも言えます」
イリスは否定しない。
「ただ、報告のためだけではありません」
穏やかな声だった。
「私が見たいから、見ています。したいから、しています。」
リリアは少しだけ黙った。
そして、ふと不安そうに聞く。
「そんなことを、私に話してしまってよろしいのですか?」
「構いません」
「本当にですか?」
「はい」
イリスは静かに微笑む。
「帝都や兄には、大したことは報告していませんから」
「そうなのですか?」
「必要なことは報告します。ですが、私が自分なりに考えたことや、気になったことをすべて送っているわけではありません」
少しだけ楽しそうに。
「それでは、私の楽しみがなくなってしまいます」
「楽しみ……」
リリアは小さく呟いた。
イリスは茶器を置く。
「それに」
「はい」
「こうしてリリアさんと話しているだけでも、私はここに来てよかったと思っています」
リリアが顔を上げる。
「私と、ですか?」
「はい」
イリスは静かに頷いた。
「リリアさんは、レオン様の妹君です」
「ですが、それだけではありません」
「あなた自身も、見ていて興味深い方です」
「わ、私がですか」
「はい」
イリスは柔らかく言う。
「リリアさんとお話ししていると、第七騎士団領のことも、レオン様のことも、少し違う角度から見えます」
リリアは少しだけ目を伏せる。
「私は、そんな大したことは」
「あります」
イリスは静かに言った。
「だから、ここに来てよかったと思うのです」
部屋の端で、メリッサが静かに控えている。
茶の香りが、まだ薄く残っていた。
リリアはしばらく黙った。
それから、少しだけ笑う。
「……そう言っていただけるなら、嬉しいです」
イリスも柔らかく微笑んだ。
リリアはもう一度、小さく笑った。




