第93話 仕切りの向こう
――帝国暦三二〇年・冬中頃 ヴェリア帝国東ロンバルディア騎士団領 第七騎士団 本庁・執務室――
部屋に入って、クリスはすぐに足を止めた。
「……なんだこれ」
変わっている。
机の配置が違う。
中央に、レオンとエリシア。
その前に、書記官たち。
そして奥に――
メリーが一人。
昨日までと、明らかに空気が違っていた。
「配置を変更した」
レオンが言う。
「エリシアと話して、少し回しやすい形にした」
「回しやすい形?」
「試験運用です」
エリシアが続ける。
「業務は一度、私に集約します」
「そこから各自に割り当てます」
「直接の判断・指示は禁止です」
はっきりしたルールだった。
クリスは室内を見回す。
リリアたちは手前。
書類の受け渡しがしやすい位置にいる。
レオンとエリシアは中央。
判断が必要なものは、そこへ集まる。
メリーは奥。
距離はある。
けれど、完全に外れているわけではない。
必要な時に情報は出せる。
だが、勝手に流れを変える位置ではなかった。
「……かなり変えたな」
「ああ」
レオンは短く頷く。
「昨日、少し助言を受けてな」
「助言?」
「同じ空間に全部置きすぎると、判断が混線するそうだ」
「……ああ」
クリスは何となく察した。
イリスだろう。
あの皇女様は、静かに見ているようで、必要なところは普通に刺してくる。
「それで、エリシアと相談してこうした」
レオンは室内を見た。
「誰が何を見るのか。どこで判断するのか。どこから指示を出すのか」
「それを、少し分けた」
「なるほどな」
クリスは頷いた。
「じゃあ、今日はこれで回すのか」
「ああ」
「問題があれば戻す」
「問題がなければ?」
「しばらくこのままだ」
仕事が始まった。
最初に書類がエリシアへ集まる。エリシアが内容を確認し、必要なものを分ける。
「これはリリアさんへ」
「はい」
「こちらはミナさん」
「分かりました」
「これは確認後、レオン様へ回します」
短く、早い。
迷いがない。
クリスは少し離れたところで、それを見ていた。
書類の流れが止まらない。
誰が何を見ればいいのかが分かりやすい。
前より、明らかに混線が少ない。
しばらくして。
一つの書類が回ってくる。
リリアが受け取る。
目を通す。
その時。
「それは第十騎士団の案件です」
奥から声がした。
メリーだった。
「補給線の再調整が必要です」
続ける。
一瞬、空気が止まる。
クリスが小さく言う。
「……もう言ったな」
エリシアが口を開く。
「メリエラ」
「手伝ってもらえるのは助かります」
そこで間を空けて続ける。
「ですが、判断と指示は私を通しなさい」
一瞬で空気が締まる。
メリーがこちらを見る。
「……はい」
短く答える。
「補足として提出します」
言い直す。
エリシアが頷く。
「受け取ります」
そのまま書類を処理する。
レオンが目を通す。
「第十に回せ」
短く言う。
流れが、整う。
ダリオがぼそりと言う。
「……分かりやすいな」
クリスが頷く。
「分かりやすいな」
ミナが笑う。
「ちゃんと回ってる」
リリアは書類を見る。
奥を見る。
メリーはもう何も言わない。
ただ、自分の仕事をしている。
黙々と。
けれど、止まっているわけではない。
必要なことは出せる。
ただし、流れを壊さない形で。
同じ部屋。
同じ仕事。
やり方だけが、ただ変わっていた。
少しだけ、距離も。
「……すげえな」
クリスが思わず言った。
レオンが見る。
「何がだ」
「いや、ちゃんと仕事が回ってる」
「回るようにしたんだ」
「それはそうなんだけどよ」
クリスはもう一度、室内を見る。
リリアが仕事を受け取る。
ミナが確認する。
ダリオが必要な資料を出す。
エリシアが判断をまとめる。
レオンが最後に通す。
メリーも、手伝っている。
ただ、前のように直接流れを動かさない。
「前よりやりやすそうだな」
「はい」
エリシアが答えた。
「邪魔なものをどけ、必要なものを必要な位置に置き直しました」
「言い方」
「事実です」
エリシアは淡々としている。
「人の流れ、書類の流れ、判断の流れ。それぞれがぶつからないようにしただけです」
「だけって言うけどよ」
「それだけで、かなり変わります」
エリシアはそう言ってから、じっとクリスを見た。
無言で。
「……なんだよ」
クリスが眉を寄せる。
エリシアは少しも表情を変えない。
「まだ一つ、邪魔なものがあります」
「邪魔なもの?」
「はい」
「何がだよ」
「あなたです」
「ひでえ」
即答だった。
執務室の何人かが、こらえきれずに小さく笑った。
エリシアは真顔のまま続ける。
「クリスさんは、何をしにここに来たのですか?」
「いや、様子を見に」
「見ているだけなら、通路でもできます」
「ひでえな、本当に」
クリスはレオンを見る。
「おい、団長。お前の副官、俺への当たり強くないか」
レオンは少しだけ笑っていた。
「いつも通りだ」
「そこは否定しろよ」
「クリスは寂しがり屋だからな」
「は?」
「ここに遊びに来ているんだ」
「おい」
レオンは笑いをこらえもせずに言う。
「もしよかったら、みんなも相手をしてやってくれ。そうしてくれるとクリスが助かる」
執務室の何人かが、また小さく笑った。
リリアも少しだけ口元を押さえている。
クリスは顔をしかめた。
「助かるのかよ」
「たまに様子を見に来る分にはな」
エリシアが少し考えた。
「では、あまり構わない方がよろしいでしょうか?」
「なんでだよ」
「構わなければ、来なくなるのではないかと思いまして」
「それもひどい」
クリスは思わず天井を見た。
レオンは笑っている。
仕事は回っている。
配置も回っている。
空気も、昨日より少し整っている。
ただ一人。
クリスだけが、配置の外で邪魔者扱いされていた。




