第92話 少し整える
――帝国暦三二〇年・冬中頃 帝都・庁舎内――イリス個室。
夕方。
窓の外は、白く霞んでいる。
部屋の中は静かだった。
第七騎士団本庁の一角にある、小さな部屋である。
イリスに与えられている、待機用の個室だった。
イリスは第七騎士団の正式な人間ではない。本来なら、騎士団の仕事を手伝う必要はない。
彼女がここにいるのは、レオンの様子を確認し、第七騎士団の状況を見て、必要な報告をまとめたり、状況を整理したりするためだった。
そのためには、近くに待機できる場所がいる。だから、この小さな個室が与えられていた。
用がなければ、ここで待機していることも多い。
その間に、自分なりに情報を整理し、報告に必要なことをまとめている。
ただ、時間が空いていれば、騎士団の仕事を手伝うこともあった。それも情報収集の一部と言えば、そうなのかもしれない。
だが、本来の目的とは少し違う。
それでも、手を貸せば周囲は助かる。
喜ばれるなら、イリスは自然と手を貸していた。
そのあたりは、レオンと少し似ている。
レオンにも団長室はある。
だが、ほとんど使っていない。結局いつも騎士団執務室に直接机を置き、そこで書類に埋もれている。
専用の部屋はある。
けれど、だいたいいつもの場所にいる。
その点では、二人とも似たようなものだった。
その個室に、今はレオンもいた。
今日の執務室は、いつも以上に騒がしかった。だから、少しだけイリスの様子を見に来たのだ。
本人は、ただ通りがかっただけだと言うだろう。だが、わざわざこの個室まで来ている時点で、それだけではないことは分かる。
部屋の端には、メイドのメリッサが控えていた。イリスの邪魔にならない位置で、静かに立っている。
口を挟む気配はない。
ただ、主の様子と、向かいに座るレオンを静かに見守っていた。
「……少し、騒がしかったようですね」
イリスが柔らかく言う。
向かいに、レオンがいる。
「いつも通りだ」
短い。
イリスは小さく笑う。
「そうでしょうか?」
「“お兄様”と呼ばれていると聞きました」
さらりと。
レオンは否定しない。
「昔からだ」
それだけ。
イリスは少しだけ視線を落とす。
「昔から、ですか」
「ああ」
「そういうものなのですね」
「何がだ」
「いえ」
イリスは小さく笑った。
「私も先日、お姉様と呼ばれました」
レオンがわずかに視線を上げる。
「お前がか」
「はい」
イリスは穏やかに頷いた。
「お姉様と呼んでよいかと聞かれましたので、許可しました」
「許可したのか」
「はい」
静かな声だった。
「私にも妹はおりますが、メリエラさんほど可愛らしくはありませんので」
「……そうか」
「少し、嬉しく思いました」
柔らかく言う。
その声に、悪意はない。
ただ、静かに事実を述べただけだった。
レオンは何も言わない。
イリスは少しだけ視線を伏せる。
「ただ、それだけではないのかもしれません」
「何がだ」
「メリエラさんが、私をお姉様と呼びたいと言った理由です」
レオンは、イリスを見る。
イリスは穏やかなまま続ける。
「姉が欲しかった、という気持ちもあったのだと思います」
「ですが」
少しだけ間を置く。
「私も、メリエラさんも、第七騎士団の正式な人間ではありません」
静かな声だった。
「そういう意味では、同じような立場です」
「外から来て、ここに席を置かせていただいている」
「そういう相手だからこそ、あのように呼びたかったのかもしれません」
レオンは少しだけ黙った。
それから、短く言う。
「そんなことはない」
イリスが顔を上げる。
「正式な所属がどうであれ、お前もメリーも、ここに必要な人間だ」
淡々と。
けれど、迷いはなかった。
「大事な仲間だろう」
イリスは一瞬だけ黙った。
それから、静かに微笑む。
「……そう言っていただけるのは、嬉しいですね」
「事実を言っただけだ」
「ええ」
イリスは柔らかく頷いた。
そして、少しだけ表情を戻す。
「……今回だけは」
静かに。
「少し、お節介をさせてください」
一瞬だけ、空気が変わる。
レオンは何も言わない。
視線だけが向く。
「同じ空間ですと、判断が混線します」
穏やかに言う。
「役割が、重なりすぎています」
「少し、整理された方がよろしいかと」
静かに。
レオンは、迷わなかった。
「……分けるか」
短く、それだけだった。
イリスはわずかに微笑む。
「ええ」
「それで十分かと」
穏やかに言う。
窓の外を見る。
白い空気。
「空気も、少しは整います」
誰にでもなく。
レオンは何も言わない。
部屋の中に、静かな間が落ちる。
メリッサも口を挟まない。
ただ、控えたまま二人を見守っていた。
イリスは、その沈黙を少しだけ聞いていた。
それから、ふと思い出したように口を開く。
「そういえば」
「何だ」
「メリエラさんは、レオン様をお兄様と呼びます」
「ああ」
「私は、お姉様と呼ばれました」
「そうだな」
イリスは少しだけ楽しそうに目を細めた。
「お兄様と、お姉様」
静かに。
少しだけ、笑う。
「なんだか、私たちも兄妹のようですね」
レオンは黙った。
否定もしない。
肯定もしない。
ただ、窓の外へ視線を向ける。
イリスは小さく笑った。
窓の外は、白く霞んでいる。
部屋の中は静かだった。
その静けさだけが、しばらく残っていた。




